亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第一章 不良役人 ③

 だが、ミアスも優秀な外交官である。緊張など全く感じさせない涼しい表情を作ると、ドアを押し広げて、後ろのサピンに入室を促す。


「どうも」


 そして、サピンの態度にミアスはあきれた。緊張感というものが全くない。小声でボソボソと挨拶すると、猫背で部屋に入ってくる。


「サピン・アエリス八等官、大使の前だぞ! もう少ししゃんとしないか!」


 彼の直属の上司である総務部長が声を荒らげるが、サピンはそちらを見もしない。


「まあいいじゃないか。君が、庶務班のサピン・アエリス君だね」


 エンシュロッス大使の穏やかな声が、総務部長をたしなめた。サピンは別段態度を改めもせず、陰気な顔で大使を見る。


「はい、そうです。お呼びとのことで、業務を中断して参上しました」

「アエリス、いい加減にしないか!」


 恩着せがましい言い方に、総務部長は血相を変えて怒鳴り、他の面々も顔をしかめる。


「大使! やはりそのような男に頼るのはしましょう。どうせそいつには、大した仕事など出来はしません!」


 別の方向から大きな声がして、皆が振り返った。幹部たちが集まったところから少し離れたかべぎわに、若手たちが立っている。声を出したのは、その中の一人の若い男だった。

 政治部の、ミアスの二期先輩、トゥーベ・クルンバンだった。

 エンシュロッスも、クルンバンを見て困った様子で眉をひそめた。


「ほう。クルンバン君は、アエリス八等官を知っているのかい?」

「はい。そいつとは同期です。仕事もできず素行も悪い、外交官の恥さらしのような人間です」


 ミアスは、口には出さないものの、内心その言葉に同意する。クルンバンと同期なら、サピンもミアスの二期上ということになる。が、階級はミアスと同じ八等官だ。クルンバンは七等官だから、早くも出世に差がついている。エンシュロッスは穏やかに笑ってサピンを見た。


「さすがに、実力がないのは困るな。アエリス君。総務部長から、君が帝国圏の言語のスペシャリストと聞いて、できれば力を借りたい。レゲール君から話は聞いているね? この子が、その亡命者だ」


 エンシュロッスが言うと、集まっていた幹部たちが、海を割るように二手に分かれた。大人たちの壁に挟まれるように、一人の少女が座っている。


「亡命希望らしいということはわかるんだが……それ以外の言葉が聞き取れず、意思の疎通ができないんだ」

「はあ。まあ、私にも理解できるかわかりませんが……」


 サピンが歯切れ悪く言うと、クルンバンは鼻で笑う。

 サピンは少女に近づいていった。ミアスは、クルンバンら若手の並びに合流し、少女の姿を見て息をむ。ミアスは、事情を知ってすぐにサピンの呼び出しに向かったので、〝亡命者〟の姿をはっきり見るのは今が初めてだった。


「相当つらい状況から逃げてきたんですね。わいそうに……」


 ミアスが思わず小声で言うと、クルンバンも、そうだな、と神妙な顔でうなずく。

 その少女は、年齢は十四、五歳くらい、もしかするともっと若いかもしれない、幼い顔立ちをしていた。民族衣装のような変わったデザインのドレスは、元は白かったのだろうが薄汚れて灰色になり、胸の辺りまである長い黒髪も、ほこりっぽく乱れてボサボサだ。何より問題は、彼女が傷だらけなことだった。顔や腕などには包帯が巻かれ、一部は血がにじんでいる。熱があるのか、荒い呼吸をしていて、うつろな視線はただ宙に向けられていた。

 サピンも面食らっていたが、すぐに非難の視線を大使に向ける。


してるじゃないですか。こんな状況で聞き取りしてるんですか?」

「それは……一刻も早く、彼女の処遇を決めるためだよ。彼女を助けるため、手続きは必要だ」


 苦しい言い訳だった。帝国の心証悪化を防ぐため、一刻も早く帝国に引き渡したい、受け入れ反対派に押されたのだろう。

 サピンは、何も言わずしばらくしゆんじゆんしていたが、やがて諦めたようにため息をつくと、床に膝をつき、少女と目線を合わせた。


「こんにちは。私はサピン・アエリスです。あなたの名前はなんですか?」


 まずは、帝国標準語で話しかける。が、その程度の言語力はこの場にいる全員が持っており、標準語でのコミュニケーションは何度も試みた。案の定、少女は宙を見つめたまま、何も言わない。

 それから、サピンは、様々な言葉で少女に語りかけ続けた。

 帝国は、広大な領土を持つ国家だ。勢力の衰退に伴い、多くが独立したり奪還されたりしたが、現在も、広範な領土に無数の少数民族が存在し、それぞれが微妙に異なる言葉をしやべっている。各民族の言語と、侵略後に押し付けた帝国標準語が交ざり、独自の方言のようなものに進化を遂げているのだ。

 サピンが、りゆうちような発音で違う言葉を口にするたび、少しずつ、応接室の雰囲気は変わっていった。落ちこぼれの庶務班を見下す空気が、もしかしたら、という期待に変わっていく。

 が、しばらくして、サピンはため息をついて立ち上がった。


「ダメですね。思いつく限りの方言や少数言語を試しましたが、反応なしです」


 応接室をため息が満たす。クルンバンがあざわらうように言った。


「やっぱりダメだったか。お前、本当に少数言語なんてしやべってたのか? 適当に声を出してただけだろう」

「クルンバン君、いい加減にしないか。確かに、今回は結果につながらなかったが、アエリス君の能力は大したものだよ」


 さすがにエンシュロッスがたしなめると、サピンは小さく笑みを浮かべた。


「いえ、クルンバンの言う通りです。この場を乗り切るために、適当に声出してただけですよ」

「お前……!」


 クルンバンが怒りに顔をゆがめた、そのときだった。

 少女が、か細い声で、何かを言った。

 皆が彼女を振り返る。少女は急に自分に集まった視線に身を縮めるが、それでも、必死に何かを訴えるように声を出し続ける。


「おお、しやべっているぞ……」


 皆は必死に聞き耳を立てるが、それ以上どうすることもできなかった。少女は、何やら同じフレーズを繰り返している。断片的にはアルトスタ語のようにも帝国語のようにも聞こえるが、全体としてはやはり何を言っているかわからない。

 サピンも、しばらくぼうぜんと少女を見ていたが、やがて、まさか、と小さくつぶやいて少女の前にひざまずいた。そして、顔を近づけて耳をすませる。


「アエリス君。わかるのか?」


 エンシュロッスがこわった顔で問いかけると、サピンは、ゆっくりと立ち上がった。


「驚いた……この子は、方言や少数言語をしやべっているわけではありませんでした。使っているのは、ある意味で帝国語より話者の多い言葉です」

「方言ではない? しかし、私はこの子が何を言っているのかわからないが……」

「はい、そのはずです。この子の言葉は、古いんですよ」

「古い?」

「古語なんです、この子がしやべっているのは。数百年前……帝国が覇権を握るよりもずっと前、教会権力の全盛期に使われていた言葉、古典教会語なんですよ」


 応接室が、さっきよりはるかに大きなどよめきに包まれた。ミアスも驚いて少女を見る。古語を使う少女。状況は、ミアスの想像もしなかった方向に転がりはじめていた。疑問が次々と湧き上がるが、蛇口が目詰まりを起こしたように、何から聞けばいいかわからない。


「古語って……? なんでこんな子供が?」