亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第一章 不良役人 ②

「私の私物ですよ。休憩用に持ってきたんです。職場で快適に過ごすために私物を持ち込むなんて、多かれ少なかれみんなやってることでしょう」

「そうは言ってもですね……!」

「私は、庶務班として屋上の管理を総務部長から一任されています。これくらい裁量の範囲内ですよ。というか、あなたは何しにきたんですか? 私の業務管理なら、政治部のエリートの皆様の仕事ではないと思いますがね」

「ぐ……!」


 いつの間にか、ミアスの顔から余裕の笑みは消えていた。よくもまあ、ここまですらすらとくつが出てくるものである。が、サピンの言う通り、ここで口論している場合ではなかったので、ミアスは気持ちを切り替えるようにせきばらいをした。


「こ、この件は、別の機会に問題にさせていただきますが……アエリス八等官。エンシュロッス大使から直々のお呼び出しです」

「大使?」

「はい。ある人物の通訳をお願いしたく」


 今度はサピンが驚く番だった。サピンはしばらくぼうぜんとしていたが、やがて面倒臭そうに顔をゆがめる。


「通訳は、畑違いですね。私は庶務という名の雑用担当ですから。それに、大使館職員なら、皆さん帝国語は理解してるはずでしょう」

「それが、そのお相手の方は、帝国共通語がほとんど通じないんです。断片的にはわかるんですが、おそらく地方の少数民族の言葉のようなものを使っていて。あなたなら、帝国のほとんどの言語に精通していると聞きましたので、わかるのではないかと」


 サピンが、直々に指名された理由。それは、彼の豊富な言語の知識のためだった。大使に彼を推薦した総務部長いわく、サピン・アエリス八等官は、言語研修で、帝国圏以北の言語においてトップの成績を収めたらしい。もっとも、推薦した総務部長本人が、なぜかサピンを呼ぶことを嫌がっていたが。


「それはそうかもしれませんが……どういう人なんです、その相手は」


 ミアスは一応、周囲に誰もいないことを確かめてから言った。


「亡命希望者です。昨夜、大使館に駆け込んできて、保護を求めてきたんです」


 アルトスタ大使館では、ごくたまにあることだった。帝国は、様々な面で、臣民への統制が厳しい国家である。故に、アルトスタのような民主主義国家への亡命は人気が高いのだ。


「……やっかいなお客様だな。この大変な時期に」


 するとサピンは、なぜか皮肉っぽい笑みを浮かべ、デッキチェアにもたれかかった。


「そんなの、言葉がわからないのを理由に追い返せばいいんじゃないですか? 領土問題で頭が痛いときに、変な問題を抱え込むことはないでしょ」


 ミアスはぜんとして言葉を失った。確かに、現在アルトスタと帝国の関係は、領土問題で難しい局面にある。その〝亡命者〟の扱いについても、上層部で意見が割れているのは事実だ。だが、サピンの言い方は、あまりに悪意がありすぎる。


「そういう意見もあるのは確かですが、エンシュロッス大使は、亡命条約にのつとった正しい手続きをご希望です」


 ミアスは跳ねつけるような調子で言った。が、サピンも動じない。


「人道派のエンシュロッス大使なら、そう言うでしょうね。まあ、理想主義者ってのは有事には役に立たないもんだ。あなたの上司も、どちらかと言うと私と同じ考えなんじゃないかなと思いますけど」


 サピンは意地の悪い笑いを浮かべ、ミアスは図星を突かれて黙る。確かに、ミアスの直属の上司である政治部長は、その〝亡命者〟を帝国に引き渡すべきだと主張していた。領土問題を抱える今、帝国との関係が悪化することを恐れているのだ。

 だがミアスは、サピンの発言よりも、態度に腹が立っていた。政治において、少数を切り捨てなければならない場面は少なからず存在する。だがそれは、半身を引き裂くような痛みを伴う、重い決断であるべきだった。サピンの言い草は、まるでごとではないか。


「私個人としては、大使のご意見に賛成です。亡命者の意思を尊重し、条約にのつとって手を差し伸べるべきです。ですが、今ここで私たちが意見を闘わせる意味はありません。大使があなたを呼び出しているんですから、グダグダ言わずに早く来てくださればいいんです!」


 気づくとミアスは声を荒らげていた。サピンはそんなミアスを黙って見ていたが、やがて小さくため息をつく。


「わかりましたよ……」


 サピンは観念したのか、だるそうに身を起こし、立ち上がって伸びをする。いくら不真面目とはいっても、一介のした官僚が、大使の召集を拒否できるはずもないのだ。

 ミアスはその姿に軽蔑とあんの交ざった視線を送りながら、テーブルに置かれている、サピンが読んでいた新聞に目を留めた。一面に、帝国語で、『帝国証券新聞』と名前が書かれている。投資家向けの、株式市場の情報に特化した新聞だ。

 ミアスは眉をひそめた。


「投資ですか?」

「え? ああ、はい。帝国って、アルトスタより投資収益への税率が低いから、利益を出しやすいんですよ。現地にいれば経済の肌感覚もわかるし、赴任してから相当稼がせてもらいましたね。外交官の役得だ」


 顔をゆがめて笑うサピンを見て、ミアスはがくぜんとした。


「あなたという人は……自分のやっていること、恥ずかしくないんですか!?」


 サピンは、また始まったと言わんばかりに顔を背ける。


「別に、自分の金をどう使おうが個人の自由でしょう」

「そうではありません! アルトスタと帝国の関係が危機にひんしているときに、外交官として仕事に励むどころかその立場を利用して個人の蓄財に励むなんて! 職業倫理としてあり得ないでしょう!」

「まあ、そうですね。おつしやる通りです」


 サピンはおざなりな返事をしてさっさと歩き出す。


「……あなた、何で外交官になったんですか?」


 ミアスの言葉には、どこかすがるような響きがこもっていた。こんな人間が、難関試験に合格し、自分と同じ職場にいるということを、信じたくなかったのである。だが、サピンは立ち止まると、当然のように言い放った。


「決まってるでしょ。自分のためですよ」


 ちゆうの〝亡命者〟は、大使館の一階にある、応接室で保護されていた。ミアスとサピンは、屋上を出て薄暗い階段を下る。

 二人の間に会話はなかった。ミアスの中で、サピンは外交官失格のらくいんを押されており、口をきくのも嫌だったのだ。サピンも強いて話そうとはせず、二人の足音だけが、天井に反響する。

 一階に下りると、廊下は急に明るくなった。大きな窓から日光が入り、床には赤いじゆうたんが敷かれている。一階は来客が多いため、さすがに内装も豪華になっているのだ。

 もう、サピンなんぞに構っている余裕はなかった。ミアスの顔が緊張でかすかにこわる。目的の応接室に着くと、ミアスは一度深呼吸して、ドアをノックした。


「失礼します」


 ドアを開くと、中にいた人々の視線が集中し、ミアスの心臓は小さく跳ねた。応接室にはそうそうたるめんが集まっていた。公使、ミアスの所属する政治部をはじめとした各部署の部長・課長クラス、そして何より、この大使館のトップ、ブレウ・エンシュロッス大使だ。

 エンシュロッスは、五十歳前後の経験豊富な外交官だった。名門貴族の出身で、端整な顔立ちにも、洗練されたたたずまいにも、外交官らしい気品がにじんでいる。


「総務部から、サピン・アエリス八等官をお連れしました」