亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第一章 不良役人 ①

 ミアス・レゲールは、大使館の廊下を早足で歩いていた。建物の採光が悪いので、午前だというのに薄暗く、少し肌寒い。総務部が申請は出しているようだが、いまだに魔石のランプも設置されていない。

 ここは、在フェルザ帝国、アルトスタ王国大使館。

 世界屈指の大国である、フェルザ帝国。

 その首都に設置された、アルトスタ王国の大使館である。

 アルトスタは、帝国以上の歴史と伝統を持つ古い国だ。ミアスは、大使館に勤務するアルトスタの外交官で、超難関の高等文官試験を突破して採用され、二年の本省勤務を経て去年から帝国に赴任している。

 ミアスは、ある用事のため、大使館の総務部を目指していた。ミアス自身は、大使館の花形部署、政治部の所属で、普段は外回りが多いためあまり気にならないが、こういうときに大使館の古さに気づく。

 大国に置かれた大国の大使館なのだから、人々は、さぞ設備も豪華だろうと想像するだろうが、現実は違った。アルトスタと帝国は、長らく国交が断絶していたため、大使館の建物は古びていて、さらに予算不足で今も整備されていないのだ。

 そしてこの状況は、アルトスタと帝国の、微妙な関係の現れとも言えた。

 総務部の部屋に着くと、多くの職員が出勤していて、忙しく働いていた。ミアスは、入り口近くのデスクに、一期後輩のスタマを見つけて話しかける。


「スタマくん、お疲れ様。ちょっといい?」

「あ、ミアス先輩。お疲れ様です! 珍しいですね、先輩がこんなところに!」


 スタマはうれしげに顔を輝かせた。彼は研修時代から知っている後輩だが、どうやら自分に好意を持っているらしい。ミアスは自分の女としての美しさを自覚していたが、スタマのこの態度はどうかと思った。そういう感情は、仕事で関わる人間に不用意に出すものではない。こういう人間は、外交官として伸びないだろう。

 ミアスはできるだけ柔らかく笑顔を浮かべた。


「庶務班の、サピン・アエリス八等官に用があるんだけど。庶務班のデスクってどこ?」


 その瞬間、スタマの目が泳ぐ。


「え、え〜と、サピンさんの席は、あそこのパーテーションの中です。でも、今離席してますよ」

「そうなんだ。どこにいるか知らない?」

「いやあ、どうだろうなあ……」


 スタマは腕を組んで、わざとらしく迷う素振りをした。ミアスは彼が何か隠していると直感する。


「知らないか。困ったな。緊急の用なんだけど」

「そんなに急ぐんですか?」

「うん。大使直々の呼び出し」

「た、大使……!」


 スタマの声が上擦った。大使の指示。その言葉に逆らえる職員など、この大使館にはいない。

 スタマは引きつった顔で立ち上がった。


「じゃ、じゃあ、僕心当たりあるんで呼んできますよ! 先輩はここで待っててください!」

「なら私も一緒に行っていい? 一刻を争うから」

「え!? いや、でも……」


 なお渋るスタマに、ミアスはいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「……スタマくん、何か隠してる?」

「そ、そ、そんなことは」

「じゃあ何で案内できないの?」


 ミアスは、スタマの椅子の背もたれに手を置き、香水の香りが強く感じられる距離まで体を近づけた。


「もう一度言うけど、庶務班のサピン・アエリス八等官の呼び出しは、エンシュロッス大使直々の指示だからね。意図的に遅延させるような言動は、査定に響くかもよ」


 スタマは、ミアスの香りと大使のプレッシャーと何かの事情に板挟みになり迷っていたが、やがて観念したように大きく息を吐いた。


「わかりましたよ……ご案内します」


 スタマは力なく言うと、身をひるがえし、部屋から出て行こうとする。ミアスは眉をひそめた。


「あれ、スタマくん、どこ行くの?」


 スタマは気まずそうな顔で振り返り、真上を指さす。


「屋上です」


 大使館の屋上は、最低限の落下防止の胸壁があるだけの、殺風景な場所だった。閉鎖されているわけではないが、特に何も無いので、基本的に誰も来ない。

 屋上に向かって階段を上りながら、ミアスは先を行くスタマの横顔を見る。スタマはサピンのところに案内するのを嫌がっていたが、理由は想像できた。要は、屋上でサボっているのだろう。スタマは、バレないように人を遠ざける役なのだ。

 総務部庶務班は、文字通り、大使館の細々した雑務を担うセクションである。班とは名ばかりで、所属するのは、今探しているサピン・アエリス八等官一名のみだ。ミアスは、庶務班などという部署があることすら今日まで知らず、当然サピン八等官とは話したこともなかった。

 こういう言い方はしたくないが、大使館の中では閑職も閑職である。八等官なら階級は自分と同じなので、年次も近いのだろう。が、政治部で出世街道を歩く自分とは違う世界の住人だと思える。

 屋上に到着し、扉を開くと、スタマは奥の一角を指し示した。


「あちらです」


 そして、視線の先にあった光景に、ミアスは目を疑った。


「……なんですか、あれ」


 屋上の端、一番日当たりのいい場所に、一脚のデッキチェアと、パラソルが並べてある。チェアには、サングラスをかけた男がリラックスした様子で寝そべり、新聞を読んでいた。横にはご丁寧にテーブルが出してあり、飲み物まで置いてある。まるで、湖畔のリゾート地だ。

 どうせ屋上でサボっているのだろうと予想はしていた。が、まさかここまでとは。

 ミアスは頭が熱くなるのを感じながら、大股でチェアの男に近づいて行った。が、男はそれに気づくことなく新聞に熱中している。


「よし、帝国魔石、上値追いだな……! 外縁圏との関係回復が好材料になる読みが当たったぜ。問題はどこまで買い増すか……」


 ミアスが足音をたてて目の前に立つと、ようやく男は気配に気づいて顔を上げた。ミアスはせつこうの面のような感情のない笑みを浮かべて男を見下ろす。


「お疲れ様です。アエリス八等官ですか?」


 男はサングラスをずらし、げんそうにミアスを見た。


「はい、サピン・アエリスは私ですが、あなたは……」

「政治部のミアス・レゲール八等官です」

「政治部……」


 サピンはサングラスを外し、新聞と一緒にテーブルに置きながら、ミアスの背後のスタマをにらんだ。


「えーと、じゃ、じゃあ僕はこれで」


 スタマは頭を下げると、逃げるように去っていく。

 ミアスは、笑みを硬直させたままサピンを見下ろした。外見は、普通の若い男だった。としは、ミアスと同世代の、二十代半ばくらい。が、だらしなく伸びた髪には寝癖が残り、シャツもベストもよれよれで、一目見て安物だとわかる。他国との社交を仕事とする外交官にとって、だしなみは命のはずだ。

 閑職に回されるには、それなりの理由がある。

 サピンの第一印象は、ミアスの想像をあらゆる点で裏付けるものであった。

 サピンは、迷惑そうな表情でミアスをにらみつけた。


「政治部の方が、何の御用ですか? 休憩中なんですが」

「それは失礼しました。しかしおかしいですね。所定の昼休憩以外の時間での休憩は、就業規則違反のはずですが」


 ミアスは攻撃するつもりで言ったが、サピンは意に介した様子もなく鼻で笑う。


「なるほど。じゃああなた方政治部は、昼飯の時間以外、絶対に休憩は取らないんですか? 関係者との社交のために外回りをした後でちょっとお茶したり、買い物したりしたことは一度もない? それとも、それも細かく記録をつけて給料から引いてるんですかね?」

「それは……!」


 ミアスは言葉に詰まった。政治部の外交官は、外に出て人と会うのが仕事だ。休憩時間がずれることはあるし、小休止を挟むことはある。


「にしても、限度があるでしょう? 何ですか、この椅子と、パラソルと、テーブルは! 大使館の備品にこんなものはないはずです!」