亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

エピローグ たまには、わがままを ④

 サピンがめるように言うと、ラジャは何かを言おうとして言葉をんだ。サピンは僅かに視線をうつむけ、自分の足元を見つめる。が、その心は、もっと遠く、司法省の庁舎も、アルトスタすら超えたどこかへ飛んでいっていた。


「俺はラジャみたいに、【ちようばつ】さえなくなれば、人類が平和になるとは思わない。人は、誰かを傷つけずには生きていけないんだよ。でも、そんな風に醜くて自分勝手かもしれないけど、それでもやっぱり……人は、争い合うだけじゃなく、共存もできると、信じたいんだ」


 目を閉じると、まぶたの裏に、田舎町の弁護士事務所と、両親の姿が浮かぶ。彼らは、人の善性を信じすぎて、自分の人生を失った。彼らの他者への態度は、甘い理想以外の何物でもない。でも、それが甘い理想であるからこそ、捨てたくなかった。

 人は、【ちようばつ】のような兵器があってもなお、それを使わずに、共に生きていくことができる。それを証明することは、父や母の抱いた理想が、間違っていないと証明することだった。それは、正義でも優しさでもない、全くもって個人的な、サピンの意地に過ぎない。


「これは、俺がやりたいことなんだ。悪いが、ラジャを死なせないことは、ついでだよ。そして、【ちようばつ】や、フォンスヴィーテの仲間に立ち向かうには、ラジャの力が必要になる。だから」


 サピンの心は、司法省の小さな部屋に戻ってきていた。目の前に、大きな瞳でサピンを見つめる、ラジャの姿がある。


「俺のために、協力してくれないか? ラジャ」


 時が止まったような静けさが、部屋に訪れた。

 窓から差し込む鈍い陽光の中を、白いほこりの粒が、ゆっくりと舞っている。

 ラジャは目を見開いてサピンの瞳を見つめていたが、やがて、無言でうなずいた。


「……契約成立だな」


 サピンは微笑を浮かべて立ち上がる。


「さあ、これから大変だぞ。どうやって亡命を承認させるか……ラジャの身分は明かすわけにはいかないし。でも、帝国に迫害されてるところはエンシュロッスも目撃してるから、とりあえずあいつを丸め込むか」


 サピンの頭はもう切り替わっていた。【ちようばつ】が不要なくらい平和な世界、という壮大な目標も大事だが、目下やらなければならないことも山積みだ。ラジャの身分は不安定なままである。一度無断で大使館から姿を消しており、亡命認定も簡単にはいかないだろう。

 ラジャは、そんなサピンをぼうぜんと見上げていたが、やがてうつむいて、小さな声でつぶやいた。


(やっぱり、戻ってきてよかった)

「ん? 何か言ったか?」


 よく聞き取れずに振り返ると、ラジャは顔をあげる。


(私が戻ってきたのは、あなたに協力をお願いするためです。でも、それだけじゃなくて)


 その瞬間、しんがたいことが起こった。ラジャの何も語らない無表情が、氷が溶けるように、柔らかくなっていく。


(それだけじゃなくて……私、サピンさんにもう一度会いたかった。だから、今、とてもうれしいです)


 そう言って浮かべられた表情は、間違いなく、笑顔だった。

 サピンは驚きで硬直した。同時に、激しく動揺する。笑った。ラジャが。そんなことがあるとは思わなかった。ラジャの感情は、いだ海のように、時々僅かな変化が現れるだけだと思っていた。しかしこれでは、年相応にわいらしい、普通の女の子ではないか。

 サピンは何かを誤魔化すようにせきばらいをする。


「そ、それはどうも……」


 情けないことに、出てきた言葉はそれだけであった。

 ラジャは、使命のためだけに生きてきた存在。今回自分の元に戻ってきたのも、【ちようばつ】に対処するため。てっきりそう思い込んでいたが、もしかすると、それは勝手な決めつけだったのかもしれない。

 人は、色々な面を持っているものだ。それを知り尽くすのには、時間がかかる。だが、ラジャという人間を知るための時間は、まだ、それなりに残されているはずだ。

 かつて、砂漠化した世界で、滅亡寸前の人類を助けるために生み出された、命の泉フオンスヴイーテたち。彼らは、人類を助けるという目的のためだけに生き、死んでいった。きっと今自分が生きているのは彼らのおかげだし、その全てを否定することはできないが、やはりサピンは気に入らない。本来、自分自身の命の泉を飲み干す権利を持っているのは、自分自身だけのはずだ。

 だからサピンはもう、ラジャの命を、誰かのために枯らさせるつもりはなかった。

 サピンは小さく息を吐くと、ラジャの方に体を向け、少し改まって背筋を伸ばした。ラジャも、何かを察して姿勢を正す。そしてサピンは身をかがめ、ダンスにでも誘うように、ラジャに向かって手を差し出した。


「少し遅くなったが……ようこそ、アルトスタへ」


 ラジャは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまた笑みを浮かべる。


(はい。ありがとうございます)


 ラジャの小さな手が、柔らかく、サピンの手を握り返した。