序・甲 ─ 少女/主/二十年前のあの夏

「いいか、気休めは言わん。どうこうが次のいくさでおれは死ぬ」


 どこかで虫の鳴く、静かな夜だった。

 たった一人の女中である少女を呼び出し、開口一番「ちよう」はそうげた。

 虫が鳴いている場所がわからないように、どこでどのようにその「戦争」が繰り広げられているのか少女にはよくわからない。

 ただ、とても大きな国、ということだけはおぼろげながら知っていた。とても大きく、言葉さえわからない国。それ以上のことは何も知らない。幼い頃に親を亡くし、十五の今まで必死に働いてきた彼女はただ生きるだけで精一杯だったのだ。

 伍長は、な人だった。

 自分自身のことはほとんど語ろうとしなかった。ていかんにも似た落ち着きを持つ彼は、若く見える時もあればひどくけ込んで見える時もあった。小さな家に住む彼には親族らしき者もいなければ、妻も恋人もいないようだった。

 お茶とおはぎぼんせたまま、少女は「え」と声をらす。


「もうすぐ戦地に発つ。街からは離れたぼうえい線だ。厳しい戦いになるだろうが、ただでは死なんようにするよ」


 少女はちようの言っていることをまだ完全にみ込めてはいなかった。淡々と話を進めるあるじに対し、彼女がかろうじて理解できたことといえばただ一つ、


「──、伍長は、もう帰ってはこられないのですか?」


 そもそもの最初から、彼は自身が死ぬことを前提として話している。

 これが少女にはせなかった。「戦争」はまだ続いており、伍長は軍人であるからして、少女は彼の帰還をいつも迎えてきた。じゆうにいる彼女にとって戦いのれつさはいまいち実感をともなわない。しかしながら、そこから必ず帰ってきた伍長はなんとなく「そういうかた」だと考えてきたのだ。

 激戦の果てに名誉の戦死をげる軍人は数あれど、伍長だけはきっといつも通りの顔をして帰ってきて下さるのだと思っていた。その前提が今、少女の中でくずれようとしている。


「そうだ、そういうものだ。おれは兵士だ。兵士には死なねばならん時がある」


 なつかしむように目を細めた伍長が何を思うか、少女にはわからなかった。

 一つ前の夏にやとわれてからここまで働いてきた少女だが、伍長についてわかったことと言えば一年間でたったの三つ。たかが女中の少女を妹のように可愛かわいがったこと、萩のもちと麦とろ飯が好物であること、子供のような冗談が好きということ。

 とかく浮世離れした御方という印象があったが、少女はそれでも構わなかった。環境に不満など全くなかったし、どこか幼さを持つ伍長と共にいる中で彼を兄のように感じたことも一度や二度ではない。

 そんな伍長が、もう帰ってはこないと言う。悲しいさびしいの話ではなく、あまりにもとうとつで実感がかないと言った方が正しい。冗談だ、といつものようにちやすのを少女はちよくに待った。しかし、伍長が言っていることは冗談でもなんでもなかったのだ。


「だがな、お前は死なんでいい人間だ。これからも生きていくべきだし、その権利がある。お前の仕事はもうすぐ終わる。今までご苦労だったな」

「え、──あ、あの、でも」


 伍長がいなくなってしまう。

 事実らしい、とようやく頭が認識したと見えて、腹の底からじわじわと不安感がきあがってくる。にわかにおろおろし出す少女を伍長は楽しむようにながめていた。結局、どれほど待ってみても伍長の口から「冗談だ」という一言は出なかった。

 ただ、彼は少女の頭に手を置いた。じようで方など知らないこつな手が、数日後には銃と軍刀を握って戦場の風を切る手が、今は木の葉のように少女の頭を撫でた。普段は近付くことさえおこがましいと思っていた主の手である。我知らず、少女は赤面した。


「よく聞け。この街の地下にな、軍の作った鹿でかい地下ごうがあるんだ。この街の民間人は全員入れるようになってるから心配いらん。お前はそこにのがれろ、避難民についての指示に従えば問題ないはずだ」

「ご、ちようっ」


 顔をぱっと上げ、少女はほうに暮れたように伍長の顔を見る。死ぬことを話しているのに、ひどくおだやかな表情だった。わけのわからないしようそうに駆られ、いつも気を付けている言葉づかいが少しだけくずれた。


「でも、でもあたし、伍長がいなくなっちゃったら、どうすればいいんですか?」


 伍長は笑み、はっきりと答えた。


「逃げろ、死ぬな。その後で、お前がどうしたいのかはお前が決めるんだ。──なに、お前たちが頃にはきっと戦も終わっているさ。そうなるためにおれたちも戦うんだ」


 今度は、言葉が返せなかった。

 伍長は少女の頭から手をどけて、皿にったおはぎにかぶりつく。大きな口を大きく開いて、一気に半分も腹の中に収めてしまう。そうして、にかりと笑う。


「うまいな、かな。お前の萩もちは本当にうまい」


 ごうほうで気持ちよく、しかしどこかさびしげな、見慣れたあるじの笑みだった。

 数日後、伍長は彼自身が言った通りに戦死した。

 叶葉が見た彼のさいの姿は、いつもの通り玄関からおおまたで出て行く背中だ。死にざまは見ていない。焼けつくような夏のあの日、叶葉はしま国南部のぼうえい都市《じんてん》の大型地下壕に逃れ、他の多くの避難民と同じく冷凍睡眠のそうに収まったのだから。

 ──生きろ、叶葉。お前にはその権利がある。

 叶葉は戦争を知らない。そこで戦い果てたいくの戦士のことも知らない。

 知らないが、伍長がくれた最後の言葉だけを絶対に忘れないようにした。彼の最後の「ご命令」として、心のしんきざみ込んだ。

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