「いいか、気休めは言わん。どう足掻こうが次の戦でおれは死ぬ」
どこかで虫の鳴く、静かな夜だった。
たった一人の女中である少女を呼び出し、開口一番「伍長」はそう告げた。
虫が鳴いている場所がわからないように、どこでどのようにその「戦争」が繰り広げられているのか少女にはよくわからない。
ただ、とても大きな国、ということだけはおぼろげながら知っていた。とても大きく、言葉さえわからない国。それ以上のことは何も知らない。幼い頃に親を亡くし、十五の今まで必死に働いてきた彼女はただ生きるだけで精一杯だったのだ。
伍長は、不思議な人だった。
自分自身のことはほとんど語ろうとしなかった。諦観にも似た落ち着きを持つ彼は、若く見える時もあればひどく老け込んで見える時もあった。小さな家に住む彼には親族らしき者もいなければ、妻も恋人もいないようだった。
お茶とお萩を盆に載せたまま、少女は「え」と声を漏らす。
「もうすぐ戦地に発つ。街からは離れた防衛線だ。厳しい戦いになるだろうが、ただでは死なんようにするよ」
少女は伍長の言っていることをまだ完全に呑み込めてはいなかった。淡々と話を進める主に対し、彼女が辛うじて理解できたことといえばただ一つ、
「──、伍長は、もう帰ってはこられないのですか?」
そもそもの最初から、彼は自身が死ぬことを前提として話している。
これが少女には解せなかった。「戦争」はまだ続いており、伍長は軍人であるからして、少女は彼の帰還をいつも迎えてきた。銃後にいる彼女にとって戦いの熾烈さはいまいち実感を伴わない。しかしながら、そこから必ず帰ってきた伍長はなんとなく「そういう御方」だと考えてきたのだ。
激戦の果てに名誉の戦死を遂げる軍人は数あれど、伍長だけはきっといつも通りの顔をして帰ってきて下さるのだと思っていた。その前提が今、少女の中で崩れようとしている。
「そうだ、そういうものだ。おれは兵士だ。兵士には死なねばならん時がある」
懐かしむように目を細めた伍長が何を思うか、少女にはわからなかった。
一つ前の夏に雇われてからここまで働いてきた少女だが、伍長についてわかったことと言えば一年間でたったの三つ。たかが女中の少女を妹のように可愛がったこと、萩の餅と麦とろ飯が好物であること、子供のような冗談が好きということ。
とかく浮世離れした御方という印象があったが、少女はそれでも構わなかった。環境に不満など全くなかったし、どこか幼さを持つ伍長と共にいる中で彼を兄のように感じたことも一度や二度ではない。
そんな伍長が、もう帰ってはこないと言う。悲しい寂しいの話ではなく、あまりにも唐突で実感が湧かないと言った方が正しい。冗談だ、といつものように茶化すのを少女は愚直に待った。しかし、伍長が言っていることは冗談でもなんでもなかったのだ。
「だがな、お前は死なんでいい人間だ。これからも生きていくべきだし、その権利がある。お前の仕事はもうすぐ終わる。今までご苦労だったな」
「え、──あ、あの、でも」
伍長がいなくなってしまう。
事実らしい、とようやく頭が認識したと見えて、腹の底からじわじわと不安感が湧きあがってくる。にわかにおろおろし出す少女を伍長は楽しむように眺めていた。結局、どれほど待ってみても伍長の口から「冗談だ」という一言は出なかった。
ただ、彼は少女の頭に手を置いた。上手な撫で方など知らない武骨な手が、数日後には銃と軍刀を握って戦場の風を切る手が、今は木の葉のように少女の頭を撫でた。普段は近付くことさえおこがましいと思っていた主の手である。我知らず、少女は赤面した。
「よく聞け。この街の地下にな、軍の作った馬鹿でかい地下壕があるんだ。この街の民間人は全員入れるようになってるから心配いらん。お前はそこに逃れろ、避難民についての指示に従えば問題ない筈だ」
「ご、伍長っ」
顔をぱっと上げ、少女は途方に暮れたように伍長の顔を見る。死ぬことを話しているのに、ひどく穏やかな表情だった。わけのわからない焦燥に駆られ、いつも気を付けている言葉遣いが少しだけ崩れた。
「でも、でもあたし、伍長がいなくなっちゃったら、どうすればいいんですか?」
伍長は笑み、はっきりと答えた。
「逃げろ、死ぬな。その後で、お前がどうしたいのかはお前が決めるんだ。──なに、お前たちが目覚める頃にはきっと戦も終わっているさ。そうなる為におれたちも戦うんだ」
今度は、言葉が返せなかった。
伍長は少女の頭から手をどけて、皿に載ったお萩にかぶりつく。大きな口を大きく開いて、一気に半分も腹の中に収めてしまう。そうして、にかりと笑う。
「うまいな、叶葉。お前の萩餅は本当にうまい」
豪放で気持ちよく、しかしどこか寂しげな、見慣れた主の笑みだった。
数日後、伍長は彼自身が言った通りに戦死した。
叶葉が見た彼の最期の姿は、いつもの通り玄関から大股で出て行く背中だ。死に様は見ていない。焼けつくような夏のあの日、叶葉は八洲国南部の防衛都市《尽天》の大型地下壕に逃れ、他の多くの避難民と同じく冷凍睡眠の槽に収まったのだから。
──生きろ、叶葉。お前にはその権利がある。
叶葉は戦争を知らない。そこで戦い果てた幾多の戦士のことも知らない。
知らないが、伍長がくれた最後の言葉だけを絶対に忘れないようにした。彼の最後の「ご命令」として、心の芯に刻み込んだ。