ここで負けて死ぬというなら、それでも良かった。
全てから取り残された沈黙の廃墟の夜、二匹の虫の死闘があった。
超高速で《蜂》が飛ぶ。
蜂は機械で出来ていた。全長およそ六メートル、その身に幾重もの複合装甲を鎧い、しかし風すら置き去りにするばかりの速度で宙を駆ける。兵装は全て必殺のそれ。破格の装甲と途方もない機動力と恐るべき破壊力を内包し、蜂はその爆発的暴力を惜しむことなく解放した。
《鬼虫》という兵器がある。
八洲軍がその技術を結集して製造した、超高性能の戦闘兵器である。
全部で九機造られた虫型の兵器の中で、蜂は最後の個体──つまり九番式だった。個別に番号の振られた鬼虫は、一機一機が一騎当千。その戦闘能力は戦略級であり、他の通常兵力を圧倒的に上回る。
金色に輝く虫の翅は驚異的な速度を機体に与える。激烈な風圧で夜を裂き、空っぽになったビル群の間を縫うように飛び、前後左右ほぼ全てに及ぶ蜂の視界は今ただ一点に射止められていた。
蜂が睨む一点、前方の夜の闇に、銀光を纏う《蜻蛉》がいる。
壱番式、最強の虫だ。
蜂は蜻蛉を照準する。闇を塗り固めたような漆黒の胴は神話上の龍にも似て、二対の銀の翅が前方の夜を舐め尽くす。
視ている。
真後ろから追随する蜂を、蜻蛉の碧い複眼は確かに視ている。
鬼虫の第一号機に当たる蜻蛉は、蜂すら圧倒するほどの空戦能力を有していた。他の尋常の兵器を遥かに超える蜂であってさえ、蜻蛉との差は絶望的なほどのもの。つまるところそれは勝てる見込みのない戦いだった。
だが、戦った。
ここに至り論理的な「理由」は存在しない。ただ己の中にある本能が如きものに従い、蜂は空を裂く。
帯電した無数のニードル弾が、蜂の機体から霞のように射出される。でたらめに撒き散らされたように見える弾幕は、その全てが確実に相手の急所に照準されていた。
通常兵器には回避も防御も叶わぬ弾幕を、しかし蜻蛉は鋭い空中機動でいとも容易く回避していく。当たる気配さえ見せない。蜂はそれを読んでおり、弾幕はむしろ罠に過ぎず、その一手先の射撃こそが本命に他ならない。
蜂の内部に規格外の電力が漲る。機体背部にある多関節の可動肢が動き、マウントされていた「鞘」から中身をずるりと抜き放つ。
そこには、野太刀のごとく長い伝導体製レールが存在していた。
レールを展開すると同時に、捻じくれた電光が夜の闇に爪痕を残しては消えた。
蜂が単騎で有する最大の兵器──驚異的な貫通力を誇るレールガンは、まさしく蜂の毒針を表すに足る。彼の最も得意とする技は、凄まじいまでの速度域で正確に敵を撃ち抜く、居合い抜きのような神速の狙撃だ。
──貫く。
発射、
プラズマを伴う閃光が闇を貫き、電磁加速された弾丸は雷撃となって標的を狙う。彼我の距離が刹那に消し飛ばされ、狙撃は標的の頭部を射抜く──筈だった。
蜻蛉は蜂が有す兵器も、それを発射するタイミングも、狙いも角度も弾速も全て完璧に読んでいた。
弾着の瞬間、金属質の甲高い音が響く。だが聴覚センサーがその音を捉える頃には、蜂は既に己が放った弾丸に何が起こったのかを把握し戦慄していた。
甘かった。何もかもが。
蜻蛉の展開する白銀の《盾》がそこにあった。
生き物の如く流動するその盾は、蜂が見極めた狙撃点に合わせて超高圧縮展開され、更に何層にも重ねられてそこにあった──まばたき一度にも満たぬ一瞬で。
弾丸は、止められた。恐ろしいほど容易く。
攻守が切り替わる。蜻蛉が龍にも似た身を捻り、ぞっとするスピードで攻勢を展開する。
蜻蛉の操る銀光が、その瞬間指向性を得た。盾が刃へと変形する。竜巻が質量を持つのだとしたら、恐らくこのようにして吹き荒れるのだろう──速度と精度と破壊力の全てにおいて蜂のそれを明らかに上回る攻撃だった。何千と間近に見て、何万とシミュレートしてきた攻撃は、そうであってさえ一分の隙すら見出すことはできなかった。
三六〇度変幻自在の斬撃が、ありとあらゆる角度から蜂を斬る。
蜂は、負けた。
これで死ぬのか、と思った。
飛行能力を失い、眼下に広がる真っ黒な廃墟に落ちる。さかさまに墜落する蜂は、夜にぽっかりと浮かぶ月を見ていた。満月は骨にも似て白く冴え、その逆光を背負う蜻蛉は影の塊のようになっていた。
しかし蜂は、それでも生きていた。
致命傷を敢えて逸らしたものだと気付いた時、敗北者への度し難い冒涜に呪いにも似た怒りを覚える。
──何故だ。
蜂は廃墟の底へ落ちながら、悠然と滞空する蜻蛉へ怨嗟の叫びを投げかける。
──何故、殺さぬ!
彼は何も答えない。碧く光る眼を数秒だけこちらに向け、しかしそのたった数秒でまるで興味を失ったように身を翻す。残光を引く機体は夜闇に銀のアーチを描き、信じ難いほどの巡航速度で可視圏外へと消えていく。奴は、沈黙のままにこう告げていた。
殺してはやらん。
貴様には、その価値さえも無い。