安東は生きている電源を器用に手繰り寄せ、レンチを回して発電機を修理していた。その背中が藪から棒にそんなことを言ったのだ。叶葉がオウム返しに聞くと、老人は片手で機械をいじりもう片手で白髪頭をぼりぼりと掻きながら答える。
「おうさ、蜻蛉様よ。大の大人の何倍もでかい図体に、風もかくやと言わんばかりに速く、とにかく滅法強い。──お前さん《鬼虫》を知っておるか?」
ふるふると首を振る。
安東にしてみれば昔語り半分の話題だったのだろうが、叶葉は作業場の床にちょこんと正座して大真面目に彼の言葉に耳を傾けていた。
この老人の話は面白い。冗談でも言うような軽快な口調が耳に心地よく、世が世なら弁士としてだってやっていけたかもしれないほどだ。
「わしも何から何まで知ったわけではないが、鬼虫の蜻蛉様というたら味方とて震え上がらぬ兵はおらなんだ。今ここの外を歩くおっかない機械兵が、いくら束になろうと傷一つ付けられん程よ。正真正銘の怪物とはまさしくあれを指すな」
「でも、あの、」
そこで叶葉が控えめに口を挟む。鬼虫という存在については少しわかった気にはなったが、そもそもの最初に安東が切り出した言葉が引っかかる。
「そのトンボさまが、なんで今九十九号線にいらっしゃるんでしょうか?」
「うむ、──そればっかりは、どうもわからんでなあ」
安東は両手だけ別の頭を持っているように器用に働かせながら、
「よもや二十年前からずっとというわけでもあるまいが、蜻蛉様は今なお九十九号線の関をお守りなさっておる。あそこは戦略上の一つの要諦であったというから、その使命をまだ遵守しておられるのか──ともあれ出るも入るも一切まかりならんという有様。望遠鏡で一度だけあそこに機械兵が近付くのを見たが、あっという間もなくことごとく真っ二つにされておった。いかなカラクリを使ったものか全くわからん」
まっぷたつ。
蜻蛉というのが具体的に何をどうしたかなどわからないにしても、その言葉だけで叶葉はごくりと唾を飲んだ。大根を切るように両断された機械兵を想像し、叶葉は慌ててその恐ろしい映像を頭から引き剥がした。
「ただ気になるのは、ここの戦線にはもう一機の虫がおったという話よ。確かあれは《蜂》だったのではと思うが……。蜂もべらぼうに強くての、空戦の達人として蜻蛉様と並び讃えられたものよ。しかし、」
「──おじーちゃん! ここってどうすんのーっ!?」
と、全く違った方面からお呼びがかかる。安東の孫娘であり整備士の卵、菘の声だ。安東は丁度いい頃合いに作業を終えたようで、最後に一発ひっぱたくように起動させるとボロの発電機が唸りをあげて息を吹き返した。
「……ふうむ、あのアホまだ手順を呑み込みきれておらんと見える。すまんなお嬢、話はここまでにしよう。まあ、要は軍道九十九号線には近付くなという話だ。外歩きの男衆とて寄ったことは無い。ま、」
言って、安東はからかうように笑う。
「華奢なお嬢じゃ徒歩で尽天の外れにまで歩くっちゅうことからして、まず無理だがの」
む。
叶葉はからかうように笑う安東の物言いに、不服そうにむくれた。
「あ、あたしだってちゃんと歩けます! 馬鹿にしないでください!」
むはは、と叶葉の強がりを笑い飛ばし、安東はのそのそと菘のいる場所に歩いていく。その背になおも物申したかったが諦めた。ふんっ、とそっぽを向くその頭の片隅で、叶葉は彼の言ったことを反芻してもいた。
──蜻蛉、と、蜂。
まとめると、こうなる。
尽天の外部と接触したい。
仮に脱出するとしても、ここからの出口は実質一つしかない。
ところがその軍道は恐ろしく強い蜻蛉が守護しており、近付けない。
したらば諦めましょうということにはならない。潔く力尽きるのを待つなんて結論には当然至らず、そこで人々が目を付けたのは、西の基地に残された通信設備だった。中でも比較的ましな状態を保っていると思われる、通称《通信塔・乙号》のそれだ。
通信塔乙号を修理することができれば、外部とコンタクトが取れるかもしれない。その望みに賭ける他に手はなかった。
叶葉は、長くまっすぐに伸びる大白通りのあちらとこちらをもう一度見回してから、ふぅと息をついた。空気を焼く太陽と、毒々しいほどに青い空。底が抜けたような無限の夏がどこまでも広がっている。
二〇度目の廃墟の夏に全身を炙られながら、叶葉は、「伍長」のことを思い出してみる。
✠
八洲国軍・北部第四工廠。北側の主要な拠点とされていた大型の地下施設である。
大白通りを北の果てまで歩き、崩落したビルを避けて地下道に潜ると、途中で秘密の貨物搬入路に枝分かれする。都市機能が生きていた頃は幾つものシャッターが重なっていた搬入路だが、何故かそれら全てがまとめてぶち抜かれていることは調査済みだ。
「仕事」は、この先にある工廠で行われる。
仕事といってもやることは一つ、打ち捨てられた施設に今なお残された廃材の回収である。
乙号の回復にはやはりパーツが必要不可欠。全て手作業な上に詳細な仕様図も失われた修繕であるから、とにかく使えそうなものは片っ端から集めた方がいいとの判断だ。
当然、危険なことは変わらない。なので本格的な探索に乗り出す前には、体力のある男連中が経路をチェックし、周囲に危険がないことを確かめるのだ。
ここは安全だ、というのが探索班の結論だった。少なくとも深入りしすぎない限り大丈夫だろうと。探索者たちは地下に潜る前にガスマスクを装着し、叶葉もそれに倣った。
「おぉいカナ嬢、大丈夫か? ちゃんとついて来てるかあ?」
「──は、はい、大丈夫です!」
探索班のリーダー格である綱島という壮年が、こちらを何度か振り返っては声をかける。叶葉はそれに慌てて答えながら、綱島らの背中を必死で追った。照明のない地下道は外の明るさからは考えられないほど暗い。メンバーが体のあちこちに反射テープを貼っていなければ、LEDライトだけでは目で追いきれないほどだ。
「嬢ちゃんじゃあ、いくらなんでもここはきつかったんじゃねえか? 手伝ってくれんのはありがてぇけど無理して貰っちゃこっちも困るってもんだ!」
仲間の一人がからかい半分本気半分で声をかけるが、叶葉はそれにむきになって反論した。
「大丈夫ですったら! あたしはいいから先に進んでください!」
廃墟を抜け、随分長く歩いている。少女にはなかなかきつい歩みの筈だ。それでも叶葉は、弱音一つ吐かず細い足をせっせと動かし廃墟を踏み越える。
叶葉が外での活動に志願した時、当然綱島ら探索班はものすごい勢いで反対した。
生存者の全員が外に出て廃墟を探索しているわけではない。探索班とは別に整備班というのもあり、それこそ老体の安東や、彼の孫娘でまだ十六になったばかりの菘はそこで力を揮っている。叶葉だって菘より更に一つ下の十五歳で、表に出るよりはアジトで中の仕事をしていた方がよっぽど安全に違いない。
だが、結局しつこく食い下がる叶葉の熱意に綱島らも折れた。通りの安全確認など比較的簡単な役割を充てることと、あまり危険な場所には連れて行かないことを条件としてはいるが。