日曜午前十一時。バッターボックスは今日も酒臭い。
十時プレイボールの予定が、遅刻者多数で一時間遅れの試合開始となるのも毎度のこと。うっかり集合時間を守ってしまった自分自身を恥じるように、楠田幸斗はキャッチャーミットの中で左の五指をこれでもかと言うほど強く握りしめた。
今度こそ断ろうと思っていたのに、またぞろなあなあで数合わせに付き合わされるとは。浪費した十五歳の日常は、もはや取り返しが付かない。六月の誕生日が、あと数週間先まで迫っていた。
「おぇえええ」
対戦チーム『大釜プロペラズ』の一番打者、竹田健三(53)がゲップとえづきを同時に吐き出し、幸斗の鼻腔をさらに強烈な甲類焼酎大五郎の臭気が襲った。思わず顔を背け、唇をねじ曲げる。コスパ最強の酒らしいが、未成年の幸斗にとってはそんなことどうでも良い。ただ他の焼酎と同じく、老人の腹の中で熟成したアルコール臭がひたすらに疎ましかった。
早く終わらせなければ。せめて午後は進学まもない高校一年生としてのアイデンティティを取り戻す。他の参加メンバー全員が万年二日酔いチーム同士の草野球に捧げるほど、若さの価値はきっと安くない。
たとえ幸斗自身の未来が五里霧中であるとしても、だ。
眉間に力を込め、幸斗はキャッチャーマスクの隙間から18・44メートル先のマウンドを見つめた。自軍『北条エンジェルズ』のエース──というより今日の参加メンバーで唯一まともにストライクが取れるピッチャーである加藤陽介(48)は、一見堂に入った投球フォームの持ち主で、ランナーの有無にかかわらず常にセットアップで構えるその立ち居振る舞いがある種の老獪さを醸し出しているものの、あの口元を覆うミットの中に充満している空気は間違いなくワンカップ大関と胃液のコラボレーションで淀みきっている。
毎度のことだが、まともに投げられるのは七十……いや、甘く見積もっても六十球が良いところだろう。無駄球が許される余地はない。
「おうし、今週も勝って美味い酒吞むぜえ」
がつ、がつと左足で地を蹴り、前のめりに金属バットを構え直す健三。右投げ右打ち、一番打者のくせにいつも引っ張って長打を狙いたがる性分。立っているのもおぼつかないほど酒が残っていても、一応当たればデカい。好きなコースは外角低め。仕事は招き猫職人。競艇狂い。
知りたくもなかったデータだが、何度も顔を合わせていれば嫌でも情報は蓄積してしまう。
初打席を最短で打ち取るための組み立ても、もはやパターンワークとして確立できていた。
幸斗はミットを外角低めに構える。初球はあえて、健三の一番好きなコースを見せつける。ただし直球ではなく、ボールに外れるチェンジアップを要求。
「っとおお!」
陽介の放った球は想定より大きく外にこぼれてはいたが、気持ちが逸っている健三は予想通り軸のぶれたフルスイングで扇風機と化してくれた。
これにてプランは成ったと、幸斗は片頰を持ち上げる。ここは二球でいい。猪突猛進な健三には三球三振ですら使いすぎだ。心許ない自軍のピッチャーを省エネ運用するために、この打席は次で内野ゴロを打たせて終える。
要求は、同じく外角低め。コースも変えず、球種だけをストレートに。健三は確実に手を出すし、速度差に対応しきれるはずもない。恐らくは振り遅れてセカンドかファースト方向にどん詰まりだ。
自信満々にサインを伝える幸斗。
「え、なんでだよ」
しかし恐ろしいことに、ピッチャーの陽介は即座に首を振って幸斗の思惑を却下した。カッと目の奥が熱くなる鈍痛に耐えながらもう一度同じサインを出すが、もはや陽介は知らぬ存ぜぬの構え。
「へへへ、陽介よぉ。お前の考えはわかるぜ。昨日の飲み比べで俺に負けたウサを晴らしたいんだろ。こいよ、ど真ん中に全力でな」
健三が上機嫌に漏らした独り言を聞いて、幸斗の背筋を虫が這うような悪寒が襲った。まずい。ありえない。陽介の球威なんてたかが知れている。コースがバレていたらまったく勝負にならない程度のピッチャーだ。
いっそタイムを、と考えが回った時には既に遅し。陽介は既に投球モーションに入ってしまっていた。
「次こそもう、絶対に参加しねえからな。こんなクソ野球」
何かの間違いでも良いからミットに収まってくれと、祈るように差し出した手元に銀色の残像が割り込み、硬球を芯で叩く焦げくさい臭いを嗅いだ瞬間、幸斗は思った。
いっそホームランの度に、祝砲の花火でも打ち上げてやろうか。
こいつら全員酒浸しだから、うまくすれば引火して球場ごと爆発してくれるかもしれない。