チビだな、というのが剣に対する偽らざる第一印象だった。年下だと確信していたので、後ほど同い年と言われてかなり驚いた。
次に思ったのは、やけに無邪気な笑い方をするやつだ、ということ。幸斗がどちらかというと斜に構えた性格なせいか、初対面の相手に対し、人はこんなにも屈託なく笑みを向けられるものなのかと感心させられた。どうせ友達多いんだろうな、なんてやっかみじみた感想も、心の片隅で抱いてしまっていたような気もする。
「お前、この辺のヤツ? みたことないけど」
「ちょっと前に引っ越してきた。とにかくいれてよ。ずっと野球やれるところ探してたんだ。やっと見つけた」
ヤンキースのベースボールキャップを少し持ち上げ、その場で何度か飛び跳ねながら手足をぶらぶらほぐして前のめりな気合いを表に出す新顔をしばらく眺めてから、幸斗と卓はアイコンタクトを交わした。ドラゴンズじゃねえのかよ。あんまり上手そうには見えないけど、今は贅沢言うのやめるか。一瞬のうちに、以心伝心で通わせたのはそんな思惑だったはずだ。言葉で確認はしなかったが、卓も似たようなことを思っている様子だった。
「いいぜ、入れてやるよ」
だからチームの創始者よりも先に幸斗が首肯した。
「得意なポジションとかあるのか? 今ならまだだいたい空いてるぞ」
卓も不服そうな態度はいっさい見せず、小柄なルーキーに対し歓迎の意を表明する。
「オレは、ピッチャーだよ」
剣は即答した。そこでようやくというべきか、幸斗も卓も僅かに顔をしかめる。こいつ、ずうずうしいな。入れると面倒くさいかな。そんな躊躇を二人は共有した。
「えー。球、届くのかよ」
「キャッチやってよ」
訝しみを隠さず幸斗があごを突き出すと、剣は気にした風もなしに人なつっこく白い歯を覗かせる。本当に、どこまでもまっすぐ他人にぶつかってくるやつだなと、幸斗は改めて苦笑させられてしまった。
面白い。ならばお手並み拝見だと、幸斗は正しくホームベースの奥に腰を落とし、剣に慈悲を込めて手招きした。
「もうちょい前から投げろよ。そのマウンド、大人用だし」
「いや、ここでいいよ」
18・44メートル先の長方形を愛おしげに蹴って、剣は誘いを断った。ああ、やっぱりただの勘違い野郎なのだなと幸斗は落胆する。小学生の野球であればピッチャーとキャッチャーの距離は14メートルそこそこなのが常識。情けをかけられたとでも思ったのかなんなのかは知らないが、大人用のマウンドから投げてまともにストライクが取れるはずもない。
「あっそ。じゃあとりあえず投げてみなよ」
「行くよ。ど真ん中な」
「はいはい」
「最終的にはど真ん中だから。約束するから、オレを信じてグラブ動かすな」
「は?」
既になんの期待感も持っていなかった幸斗だったが、剣の言い分がさっぱり理解できなくて殊更に顔をしかめる。最終的? なにいってんだこいつ。この少年はなぜ、ここまで自らに対しやたらと自信満々でいられるのだろう。
苛立ちを隠しきれなくなりつつあった幸斗の脳内が真っ白になるのは、それからほんの数秒後の出来事だった。
「……なんだ、今の」
魔球だ。
なんとも陳腐な表現だが、この時幸斗は他に形容する術を持たなかった。
信頼ではなく、むしろ期待感が無かったゆえ怠惰にど真ん中で構えていたグラブに突き刺さった軟球を、幸斗は何か未知の生物を土の中で握りつぶしてしまったような顔で凝視する。
もし、少しでも球筋を真剣に追いかけていたら、捕れなかった。『あそこ』にあった球が、なぜ『ここ』に収まっているのだ。キャッチした幸斗自身が、誰よりもその事実に驚愕した。
「お前、すげえな! 一発でオレの球捕ったヤツ、初めて見たぞ! 最高のキャッチャーだよ!」
「た、たいしたことないって。これくらい」
つよがりだった。内心で幸斗は高揚感を押さえることにひたすら必死だった。
かつて、キャッチャーというポジションに魅力を感じたことなんてなかった。
けれども、この宙から降ってきた『最高のピッチャー』に。救世主のように現れた『エース』にそう言われたならば、目指してみようか、キャッチャーを、極めてみようか。
それできっと、五年後は甲子園だ。
軽薄だなんていっさい疑わなかった。佐原剣の投球がたった一球で見せてくれた夢は、常滑で暮らす流れ者チームの小学生四人を、魂の根元から心酔させた。
いつまでも醒めない夢だったなら、今も変わらず幸斗たちは白球に全身全霊をぶつけていたのだろうか。
考えても無意味なことだが。結果として、その後夢はあっさりと潰えた。だから今はせつに願う。早くこの眠りが覚めて、二度と振り返りたくもない記憶をなぞるだけの悪夢もさっさと終わってくれやしないか、と。
*
願った直後に幸斗の目は醒めた。
「ドイヒー」
誰に向けるでもない恨み節で、幸斗はひとりごとを漏らす。期待感を持たせるような場面で打ち切りになったのが非常に腹立たしい。とはいえ先に続いたところで史実通りなら待ち構えているのは尻すぼみの極みと言うべき結末なので、追体験があそこで終わってまだマシとも言えなくはなかったが。
時計を見る。午前五時。早すぎる。
それでも二度寝が効く予感がしなくて、幸斗は階下の洗面台へ顔を洗いに行く。
佐原剣との邂逅から一月も経たないうちに、幸斗たちはとりあえず爪弾きにされたスポ少チームに野良試合を挑むことにした。
まだ頭数は揃っていなかったが、正式な試合の形式に則らなくとも、投打であの鼻持ちならない連中に一泡吹かせたい欲求が抑えきれなくなったのだ。
三角ベース、あるいは野球盤まがいのルールでも良い。とにかく、実力でこちらが上回っていることを誇示して『水商売の子』と馬鹿にされた恨みを晴らしたかった。
宣戦布告は受け入れられ、ほどなく対決が実現。
そして、幸斗たちは一度のアウトすら取れないまま敗北した。
敗因は単純にして明解。『魔球』が小学生野球では禁忌である『変化球』と見なされてしまったためだ。剣は初球こそ衆人の度肝を抜いたが、直後にクレームが殺到。敵側の主張は敵側の保護者が務めていた主審に認められ、以後全ての剣の投球がコースに拘わらずボール扱いとなる。