「すんげー居心地悪かったんだけど、それでもいつかこういう状況にも慣れてくるのかなってふと思って。そしたら、そのうち彼女とか居るのも普通になって、なんとなく流れで結婚して、なんとなく子どもできて、なんとなく年寄りになって。そんで……なんとなく死ぬのかなって。ドミノ倒しみたいに、一つ転がったらもうなにもかも最後まで止まらないような気がして、怖かった」
「だから、まだ今は最初の一枚を弾きたくない?」
「だって、自分の人生の終わり方なんて、想像したくないじゃん。変な方に行きたいよ。どう転ぶかなんて、わからない方が良い。変わり者って言われてもそれで良い。その方が良い」
ゆっくりと言葉を選んで、卓は天井を見上げる。
「や、ごめん。今のなし」
その体勢のまま、絞り出すような声で前言撤回が伝えられた。たぶん恥ずかしくなったのだろう。かわいいやつめ、と幸斗は密かに思う。
本当は頷いて同意を伝えたかった。同じ経験をしたわけではないが、『何も起こらないかもしれない閉塞感』なら、幸斗もまた、日々のふとした瞬間に感じ取って、そのつど鈍色の恐怖に包まれる。
滑っているからなのだろう。例えば酒とか煙草、例えば悪事、例えば恋愛関係。なんであれ、逆に思いきり足を踏み外して急転直下の墜落を味わってしまえば、この、胸がつかえたような息苦しさからは逃れられるような気がする。
何か起こるでもなく、しかし贅肉のように蓄積していく停滞に引っ張られたじわりじわりとした精神の滑落が、よりいっそう『底』の存在を意識させるのだ。
どうせ最後は同じところにたどり着くなら、いっそ飛び降りてしまっても同じではないか。そんな自暴自棄に苛まれそうになる瞬間ふと我に返り、幸斗たちは恐ろしくてしかたがなくなる。
しかしそれはきっと、まだ浮きあがる、上昇するという意思が残っているから。
こんなもんで終わらないだろ、という根拠もない藁にもすがるような希望的観測。それは青臭さと嘲笑される、成熟を経て体外に排出されてしまう灰汁の類かもしれない。
だとしてもまだ。せめて青く在りたいのだ。それが楠田幸斗と、筧川卓。今ここに居る二人の十五歳の渇望に違いない。
きっと未だ出会わず仕舞いの何かが、常滑の日々からジェットエンジンで離陸させてくれる。
でなければいよいよ、人生なんてやってられない。
「立てよ、相棒」
幸斗は卓の前に歩み寄り、そっと右手を伸ばす。この停滞感を言葉で打ち払えるほど、幸斗の舌は雄弁に回らない。
「なんだよ。いつものやつか、親友?」
「ああ、筋トレだよ相棒。筋トレは人を裏切らない」
思惑を悟られ頷く幸斗の手を、卓はやれやれといった感じで緩慢に握る。
「毎度の質問だけど、なんのために?」
「例えばだが。もし、第三次世界大戦とか宇宙人の襲来とかに巻き込まれたとしてだ。崩れかけたビルにしがみついて、あと一回懸垂できてれば助かったのに。助かってれば、人生逆転できたのに──って事になったら悔やんでも悔やみきれないだろ。運は後から変えられないけど、筋肉は変えられる。つまり、チャンスは筋肉で摑める」
持論を展開すると、もう何度も聞いたはずの話にも拘わらず卓は高笑いしながら直立した。
「やっぱりお前はバカだなあ、親友」
「似たようなもんだろ、相棒」
そして、二人はごつんと乱雑に拳をぶつけ合って上半身裸になり、額を付き合わせながら腕立て伏せを開始した。
「なあ幸斗! 筋トレって本当につまらねえな!」
「ああ! 泣きたくなるほどクソみたいな時間だ!」
悪態までもがいつも通りのルーティンで、幸斗たちは粛々とメニューをこなしていく。
「ああ、そういえば」
中盤に差し掛かった頃、幸斗はふと帰宅前の一件を思い出す。渚の口から聞かされた『あいつ』のこと。卓にも話題を持ちかけてみるべきだろうか。
「ん? どした?」
「いや、なんでもない」
迷ったが、結局幸斗は忘れることにする。今さら出しても是非もないことなのは間違いなかったし、それにもし。
卓から『あいつって、誰のことだ?』と訊き返されたなら、自分の全てを棚に上げてうっかり不服を漏らしてしまいそうだったから。
*
その夜、幸斗は夢を見た。
広い公園の一角で、グラブをはめた卓と相対している。その姿は今現在の本人のものよりだいぶ幼い。
幸斗自身も身体が小学生の頃に戻っていたので『ああ、これは夢だな』となんとなく気付いた。しかし行動の選択権は与えられていないらしく、自我とは別のところで口や身体が動き出すのを制御できない。一人称視点の映画を無理矢理見せつけられているような居心地の悪さが、幸斗に疲労感を募らせる。
「ちゃんと捕れよなー! そんなんじゃあいつらにフクシューできないぞ!」
「卓の球が逸れすぎなんだって!」
その上、夢の内容が過去の記憶をそのまま再生している類だとわかってますますうんざりさせられる。どうやら日中に重なった様々な出来事が、余計なトリガーとなってしまったらしい。
「じゃあ誰がピッチャーやるんだよ?」
「まだ四人しかいないんだし、ポジションは九人揃ってから決めれば良いよ」
交わされる会話で、正確な時系列も把握できてきた。恐らくこれは、卓が独立して新規野球チームの結成を目指して間もない頃の一幕だろう。
今では信じられないことに、かつて大志を抱く野球少年だった幸斗と卓は、揃って地元のスポーツ少年団チームに加入した。しかしチーム内にはかなり閉鎖的な派閥が存在しており、主要メンバーから家庭環境を理由に差別的な扱いを受けて卓が激怒。『独立宣言』を残してチームを退団し、幸斗も一蓮托生と友人に続いた。
それからツテを手繰って二名の新規メンバーを獲得したものの、未だエース不在という致命的な問題が残されたまま。人材確保が兎にも角にも急務だった。
そこに忽然と現れたのが、あいつ──。
佐原剣という名の、少年だった。
「おっ、野球やってんの? オレもいれてよ」