卓が先客として部屋に居たこと自体は別に驚かなかった。昔から屋根づたいの訪問は日常茶飯事だったし、幸斗もそれを想定して窓に施錠しない。ただまさか、今日先回りされるとは思っていなかったのだ。
「そうか? いつも通りの時間に帰ってきたぞ?」
「いつも通りだからだろ。デート切り上げんの早すぎじゃないか?」
我が物顔でクッションソファに埋もれていた卓の正面に回り、幸斗もその場であぐらをかいて座る。
「あーそうだ。お前、アレはないだろ。なんで一人で帰っちまうんだ裏切り者」
すると俄然卓は表情を強張らせて抗議の意を伝えた。幸斗としては甚だ心外である。
「気を利かせてやったんだろうが。出来たての彼女なんだから大事にしてやれよ」
「彼女、彼女ねえ。彼女なのか?」
「いや俺に訊くなよ。彼女なんだろ」
「なあ幸斗。彼女ってなんだ? どうすれば彼女で、どうすれば彼女じゃないんだ?」
顔の半分をソファに埋めたまま、疲れ果てた声で問う卓。人生の絶頂を感じても良さそうな状況なのに、むしろ最近ますます息苦しそうにしているのがどうにも幸斗には解せない。
「訊かれても困るって。お前がナンパしたんだろ」
「反省している。まさかOKされるとは思わなかった」
「ヒドい男だ」
ひとしきり呆れてみせてから少しの沈黙を隔て、幸斗は悩める親友のために、もう少し踏み込んだ質問を重ねることにする。
「好きじゃないのか? あの娘のこと」
「美人だなとは思うよ。けど、先週初めて会ったんだぜ? 好きとか嫌いとか、いつどのタイミングで決めればよかったんだ?」
「んー」
そう問われると幸斗自身人生経験が少ないので返事に時間を要する。
「それに、あの娘の方は? なんで急に声かけてきた男と付き合っても良いって思ったんだ? あの娘はいつ、俺のこと好きになるタイミングがあった?」
がばりと上半身を起こし、卓が真剣極まりない双眸で幸斗を見つめる。相手が乗り気になったのは、おそらく卓の顔立ちが整っているからだろうなと幸斗は思った。しかしそう伝えても納得してもらえない予感があったので、もっと根本的な部分で仮説を唱えてみる。
「そもそも、普通はそういうこといちいち考えないんじゃないのか? ナンパしたり、されたりする種族って」
「なんてこった。またひとつ才能を否定された」
ばたり、と再びクッションに沈み込む卓。実際のところ、本質的な部分で卓は軽快に他人との距離を詰められるタイプではないだろう。
何気にロマンチストなのだ。女性に限らず、運命的な出会いを求めずにはいられない性分。だからこそ怠惰に過ぎていく何も起こらない毎日に危機感が募るし、即物的に何か変えたいと躍起になり、しょっちゅう道に惑う。
幸斗も同族だから、その辺の心情は察して余り有る。
それにしても、だ。ここまで交わした会話の内容からして、卓の妙にお早い帰宅がますます気がかりになってくる。
「お前、もしかして。もう別れた?」
「別れてはねーんじゃないのか。たぶん」
「たぶんて」
おそらく、そもそも付き合っているのかという自問なのだろうが、さすがに幸斗も噴き出してしまった。ともあれ、卓の方から関係の清算を迫ったりはしていないようだ。
「じゃあせめて、もう少しどっか遊びに行ったりすればよかったのに」
いくら娯楽が少ない街とはいえ、マックで駄弁ってそのまま帰宅というのはいささか健全すぎるだろう。
「やーだって、ウチ来たいとか言い出すし」
「あー」
それきり、幸斗は二の句が継げなくなってしまった。卓の家は母子家庭で、この家と似たスナックと自宅一体型。近しい境遇で隣同士なので、なんとなく人を呼びづらい心情に関してはこれまでずっとシンパシーを共有し続けてきた。
加えてもう一つ、筧川家には問題があった。卓の母親はとてもやさしく面倒見のいい人間なのだが、いわゆる家事全般が非常に苦手らしい。店舗の方は従業員の手も借りて小綺麗にされているものの、一歩住居の方に足を踏み入れると常に様々なモノで溢れかえっている。
そんな環境に息が詰まるところがあってなのか否か、昔から決まって卓は夜になると幸斗の部屋に転がり込んでくるのだった。
「しかもスマホ持ってないって言ったらすんげえ顔で驚かれてさ。来週までに買おうよ、持ってないとかありえないよ、とかずっと勧誘されっぱなしだったから。なんかもう、最後は逃げたい一心で用事でっち上げて帰ってきた」
「あー」
またしても声を失う幸斗。本人の言葉通り、卓は買ってもらえないわけでもないのに自らの意思でスマートフォンを持とうとしない、高校生としてはたいへん希有な存在だった。
理由は、『目が悪くなるから』。ビデオゲームの類を頑なに避けるのも、同じ主張による。
卓にとって、持って生まれた動体視力こそが、はっきりと自覚できる唯一の矜恃なのだろう(むろん幸斗としては目が良いだけの男だなんて少しも思っていないが)。翻って、それを失いかねない可能性を、過敏なほど避ける傾向にある。
改めて考えると、グレない、極力液晶を見ない。そんな縛りの中で暮らしていたらたとえ大都会に居ても熱中できるものを捜すのは容易ではあるまい。このまま下手を打つと出家して仏門に入るくらいしか選択肢が残らなくなりそうで、幸斗は改めて背筋が寒くなった。
「やっぱりこの機会、無駄にしない方が良いと思うぞ。卓って、客観的にはけっこう変わり者だし。次のチャンスなんていつくるやら」
上から目線でそんな説教ができる立場でないことは重々承知していたが、つい呆れ笑いを漏らしてしまう幸斗。
「うっせ、お互い様だろが」
卓がにやつきながら戯れにローキックを飛ばす。さすがに怒られるかと思っていたので、幸斗にはその穏やかな反応が意外だった。
「なんで嬉しそうなんだよ」
「別に嬉しかねーけどさー」
溜息交じりにそう言って卓は立ち上がり、窓べりに腰を落ち着け直す。
「今日、なんかちょっとだけ怖かったんだ。奥に色々見えた気がして」
そして、恥を忍ぶようにはにかむと、幸斗を見つめながら両眼を細める。
「奥?」