第一章 ⑥

 昔はゆきすぐるなぎさ、三人でおさなみだった時代があったはずなのだが。もはやそれがだれかに植え付けられたにせおくなのではとすら疑いたくなってくる。どうしてなぎさはあんなにもひようへんしてしまったのだろう。それが理解できる日まで、ゆきは女性ぜんぱんに対するけいかい心を解くことができないのではないかと軽いいだいていた。


「あいつ。……あいつ、ねえ」


 徒労感をつのらせながら帰路を辿たどちゆう、ふとなぎさの言葉をはんすうする。

 実は、そう言われて一人だけ心当たりがないわけではなかった。

 ゆきなぎさが共通にんしきできる、今はもうこの街からいなくなってしまったはずの『あいつ』。

 その『あいつ』を、なぎさはこの街で見たのだろうか。

 だとしたら。


「関係、ないか」


 枝なりに広がり始めた思考を、ゆきは強制的にはらう。

 関係ない。それが結論でるぎない。だからこれ以上考えても仕方のないことだ。

 なぜなら、ゆきにとって『野球はもういい』のだから。


     *


 うでけいに目をやれば、時刻は午後六時五十七分。ギリギリで店の口開け前にもどってこられたことに、ゆきはほっと胸をなで下ろした。


「ああ、ゆき。おかえり」


 などと安心したのもつかの間、こっそり裏口に回ろうとしたゆきの真ん前で表とびらが開き、『営業中』の札をかかげるべく外に出てきた家主とばったり出くわしてしまう。どうやらつくづく、今日は人との対面をけられぬ運のめぐりらしい。


「ただいま。それじゃ」

「待ちな」


 そそくさとを進め、店の上にある自室にもってしまおうとしたゆきを、気だるげな女言葉が呼び止めた。うんざりしてかえると、いつ見ても変わりばえなくバカでかい、九十年代ごろに一世をふうしたらしいグラムロックバンドのボーカルによく居そうな、たけ185センチをえるきんぱつロングヘアの『男』が、あつしようおくからしつけがましいあいひとみななめ下に向けている。

 大天使。源氏名を、アザナエル。草野球チーム『ほうじようエンジェルズ』の創始者であり、街でただ一けんのニューハーフバー『セブンスヘブン』の店主。ゆきにとって、親と呼ぶべきゆいいつの存在なのだった。

 ──くすゆきは物心つく前から今に至るまで、オカマのごうわん一つで育てられた少年である。

 多少、しようがひねくれていることは自覚しているゆきであった。だが別な確信もある。オカマに育てられた幼少時代を送ったにしては、これでもわりかしまっすぐ育った方ではあるまいかと。

 当たり前だが、実の親ではない。けつえん上は母方のに当たる。肉親はゆきが生まれたころこん協議に入り、みにくい親権のけ合いを見かねたアザナエルが保護者を買って出てくれたらしい。それから確かな愛情でもつて、ゆきに不自由をかけず高校まで進学させてくれた。

 家庭かんきように不幸を感じたことはなかった。ゆうふくとまではいえない暮らしでも、文句をらしたらバチが当たるだろう。タマキズなのはただ、ゆいいつの保護者がオカマであることだけだ。ちなみにタマタマにはメスを入れてないらしいのでそちらは無キズとのこと。はなはだどうでもいいことだが。


「なんだよ、つかれてんだけど」

「今日もだいかつやくだったってね。ようすけちゃんが電話でめてたよ。あと、リード無視して悪かったって、あやまっておいてってさ」

「どうでもいいよ、あんな試合」


 あいらくのどこにも伝えたい感情がなかったので、ゆきは雑に手をってその場をはなれようとする。あのいどれピッチャーめ、わざわざ報告なんてせずともよいものを。それにあやまるくらいならちゃんとサインこうかんくらいしてしい。どうでもいい試合ではあるが。


「来週もすけたのむってさ。次はちゃんとキャッチャーの言うこと聞くって」

「もうめるよ、今度こそ。あんな野球なんにもならない」


 口にしてすぐに失言だったと気付いた。それではまるで『何かになる野球』が、いまゆきにとって存在するみたいではないか。


「あの人も昔はいいピッチャーだったんだけど、だいぶ体力落ちてるからね。やっぱりおさえの切り札が必要かね、今のチームには」


 オカマはこの手のすきのがさない。にくらしいくらいするどく、思わせぶりに、ゆきの決心をゆすりにかかる。


「あんたがまた、投げるってのか?」


 おそろしいことに、このオカマはこうえん出場経験者なのであった。それがどうしてこんなことになってしまったのか、知る者は少ない。ゆきいまだ教えてもらっていなかった。


「どうかしら。でも起きられたら、来週は顔を出してもいいかもね」


 大天使はウインクでゆきあおった。はなはだキモい。

 キモいが、オカマのカマり投法はなかなかどうしてさりがい。実際にスピード計測したらひようけかもしれないが、高身長からり下ろされる球筋は角度があって手元でぐいっとびる。変化球は何も持たず、本業は外野手らしいが、今のチームではちがいなくかつぼうされる戦力だ。

 後半三十球。それだけめれば、ようすけのスタミナを加味してもリードのが立つ。


「とか言ってまたどうせてるくせに」

「お店終わるの四時だから午前の試合はつらくてねえ。でもあんたがアタシを求めてくれるなら、お母さんがんばって早起きしちゃう」

「求めない。いらない。そもそももう試合出ないから」


 だれがお母さんだ、というツッコミを出しそこねたこうかいも強かったが、これ以上話に付き合うとペースを持って行かれてしまう。そうしてゆきは半ばごういんにオカマバーの店先をはなれ、裏口に回った。

 とびらを開くと二階直通の階段がまっすぐびているみような勝手口。店を通らずとも自室へ帰れるよう、ゆきはいりよした構造なのだろう。いろいろづかってもらいながら育てられたことくらいは、ゆきだって昔から気がついていた。

 だから、アザナエルのことはきらいなわけではない。母とは認めないが、親だとは思っている。

 ただそれでも、やはり積極的に外でれたい家庭かんきようではなかったから、自室に招いたことがある友人はかいに等しかった。


「おうゆきおそかったな」

「え、すぐる!?」


 ただ一人、よく似た家庭かんきようを持つ、りんじんを除いては。


「いやお前が早すぎだろ」

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