昔は幸斗と卓と渚、三人で幼馴染みだった時代があったはずなのだが。もはやそれが誰かに植え付けられた偽の記憶なのではとすら疑いたくなってくる。どうして渚はあんなにも豹変してしまったのだろう。それが理解できる日まで、幸斗は女性全般に対する警戒心を解くことができないのではないかと軽い危惧を抱いていた。
「あいつ。……あいつ、ねえ」
徒労感を募らせながら帰路を辿る途中、ふと渚の言葉を反芻する。
実は、そう言われて一人だけ心当たりがないわけではなかった。
幸斗と渚が共通認識できる、今はもうこの街からいなくなってしまったはずの『あいつ』。
その『あいつ』を、渚はこの街で見たのだろうか。
だとしたら。
「関係、ないか」
枝なりに広がり始めた思考を、幸斗は強制的に振り払う。
関係ない。それが結論で揺るぎない。だからこれ以上考えても仕方のないことだ。
なぜなら、幸斗にとって『野球はもういい』のだから。
*
腕時計に目をやれば、時刻は午後六時五十七分。ギリギリで店の口開け前に戻ってこられたことに、幸斗はほっと胸をなで下ろした。
「ああ、幸斗。おかえり」
などと安心したのもつかの間、こっそり裏口に回ろうとした幸斗の真ん前で表扉が開き、『営業中』の札を掲げるべく外に出てきた家主とばったり出くわしてしまう。どうやらつくづく、今日は人との対面を避けられぬ運の巡りらしい。
「ただいま。それじゃ」
「待ちな」
そそくさと歩を進め、店の上にある自室に籠もってしまおうとした幸斗を、気だるげな女言葉が呼び止めた。うんざりして振り返ると、いつ見ても変わりばえなくバカでかい、九十年代頃に一世を風靡したらしいグラムロックバンドのボーカルによく居そうな、身の丈185センチを超える金髪ロングヘアの『男』が、厚化粧の奥から押しつけがましい慈愛の瞳を斜め下に向けている。
大天使。源氏名を、アザナエル。草野球チーム『北条エンジェルズ』の創始者であり、街でただ一軒のニューハーフバー『セブンスヘブン』の店主。これが幸斗にとって、親と呼ぶべき唯一の存在なのだった。
──楠田幸斗は物心つく前から今に至るまで、オカマの豪腕一つで育てられた少年である。
多少、性根がひねくれていることは自覚している幸斗であった。だが別な確信もある。オカマに育てられた幼少時代を送ったにしては、これでもわりかしまっすぐ育った方ではあるまいかと。
当たり前だが、実の親ではない。血縁上は母方の叔父に当たる。肉親は幸斗が生まれたころ離婚協議に入り、醜い親権の押し付け合いを見かねたアザナエルが保護者を買って出てくれたらしい。それから確かな愛情で以て、幸斗に不自由をかけず高校まで進学させてくれた。
家庭環境に不幸を感じたことはなかった。裕福とまではいえない暮らしでも、文句を漏らしたらバチが当たるだろう。玉に瑕なのはただ、唯一の保護者がオカマであることだけだ。ちなみにタマタマにはメスを入れてないらしいのでそちらは無傷とのこと。甚だどうでもいいことだが。
「なんだよ、疲れてんだけど」
「今日も大活躍だったってね。陽介ちゃんが電話で褒めてたよ。あと、リード無視して悪かったって、謝っておいてってさ」
「どうでもいいよ、あんな試合」
喜怒哀楽のどこにも伝えたい感情がなかったので、幸斗は雑に手を振ってその場を離れようとする。あの酔いどれピッチャーめ、わざわざ報告なんてせずともよいものを。それに謝るくらいならちゃんとサイン交換くらいして欲しい。どうでもいい試合ではあるが。
「来週も助っ人頼むってさ。次はちゃんとキャッチャーの言うこと聞くって」
「もう辞めるよ、今度こそ。あんな野球なんにもならない」
口にしてすぐに失言だったと気付いた。それではまるで『何かになる野球』が、未だ幸斗にとって存在するみたいではないか。
「あの人も昔はいいピッチャーだったんだけど、だいぶ体力落ちてるからね。やっぱり抑えの切り札が必要かね、今のチームには」
オカマはこの手の隙を見逃さない。憎らしいくらい鋭く、思わせぶりに、幸斗の決心をゆすりにかかる。
「あんたがまた、投げるってのか?」
恐ろしいことに、このオカマは甲子園出場経験者なのであった。それがどうしてこんなことになってしまったのか、知る者は少ない。幸斗も未だ教えてもらっていなかった。
「どうかしら。でも起きられたら、来週は顔を出してもいいかもね」
大天使はウインクで幸斗を煽った。甚だキモい。
キモいが、オカマのカマ掘り投法はなかなかどうして刺さりが良い。実際にスピード計測したら拍子抜けかもしれないが、高身長から振り下ろされる球筋は角度があって手元でぐいっと伸びる。変化球は何も持たず、本業は外野手らしいが、今のチームでは間違いなく渇望される戦力だ。
後半三十球。それだけ見込めれば、陽介のスタミナを加味してもリードの目処が立つ。
「とか言ってまたどうせ寝てるくせに」
「お店終わるの四時だから午前の試合は辛くてねえ。でもあんたがアタシを求めてくれるなら、お母さんがんばって早起きしちゃう」
「求めない。いらない。そもそももう試合出ないから」
誰がお母さんだ、というツッコミを出し損ねた後悔も強かったが、これ以上話に付き合うとペースを持って行かれてしまう。そう危惧して幸斗は半ば強引にオカマバーの店先を離れ、裏口に回った。
扉を開くと二階直通の階段がまっすぐ伸びている妙な勝手口。店を通らずとも自室へ帰れるよう、幸斗に配慮した構造なのだろう。いろいろ気遣ってもらいながら育てられたことくらいは、幸斗だって昔から気がついていた。
だから、アザナエルのことは嫌いなわけではない。母とは認めないが、親だとは思っている。
ただそれでも、やはり積極的に外で触れたい家庭環境ではなかったから、自室に招いたことがある友人は皆無に等しかった。
「おう幸斗。遅かったな」
「え、卓!?」
ただ一人、よく似た家庭環境を持つ、隣人を除いては。
「いやお前が早すぎだろ」