所在なくなると、幸斗は決まって中部国際空港の対岸にある砂浜で時間を潰す。暗闇の奥にぼんやり浮かぶ、海の向こうの誘導灯を眺める様は絵面だけならセンチメンタルの極みかもしれないが、現実としてはさほど陶酔できる環境でもない。
なにせ向かい風が強い日はやたらと磯臭いのだ。人工島で海流を歪めてしまったせいなのかはわからないが、今、この近くで確実に何かが腐っている。
まさか幸斗自身の内面から滲み出る澱に鼻が悲鳴を上げているということもあるまい。
朝からの稼働で幾分張ってきた首筋をほぐすように顎を持ち上げながら、幸斗はジップアップパーカーのポケットに両手をだらりと預ける。
轟音をあげて夜を貫くジェット機が、どことも知れぬ違う世界へまたひとつ消えていった。
「あいつらは、ジェットついてるからな」
だからどこにでも行けるのだろう、と詮無きことを思う。何の推進力も持たぬ幸斗だから、わだかまりを断って浮上するには身体が重すぎた。せいぜい他力本願に滑空しながら高度を下げていくことしかできない毎日だ。
いや、滑空とて奢りすぎか。そもそも飛んでないのだから、単に地を滑っているだけだ。
人生、横滑り。変わりたいとは思っても、熱が入らない。無理矢理燃料を込めても、点火すべきエンジンが見つからない。
「パイロットでも目指すかー」
そうすれば幸斗だって飛行機の力を借りてどこなりとも飛んでいける。
もちろん少しも本気ではなかった。俄然虚しさが溢れる。
「そろそろ帰らんとな」
大きく息を吐き出して引き返す幸斗。家に居る時間は短くしたいが、さりとてあまり帰りが遅くなるのも問題だ。酒場が開いてしまうと常連客たち、即ち草野球チームの構成員が押しかけてくる。顔を合わせて巻き込まれるのはもう御免被りたかった。
すっかり暗くなった歩道まで戻り、幸斗は近くのショッピングモールに背を向け自転車を漕ぎ始める。するとまもなく、向こうから歩いてくる女子二人の姿がぼんやりと眼に留まった。
「うわ、アホほど人運の悪い日だ」
幸斗が思わず顔をしかめたのは、二人のうち向かって右側の方にはっきりと面識があったからだった。名は、望月渚。彼女もまた、かつて幸斗から離れていった人間のひとりだった。
──離れていった。
ふと思い浮かんだ言葉に不吉の色を感じて幸斗は別の表現を模索する。卓との間には、別に今のところ溝ができたわけでもないではないか。
余計なことを考えている間に二人組との距離が迫ってしまう。ほんの瞬間だけ、渚が幸斗を一瞥したことが何となくわかった。すれ違う間際まで対応に惑う。せめて挨拶くらいはすべきだろうか。
再び同級となった高校の学内・学外を問わず、可能な限り話しかけてくれるなと、戒告を受けているのだが。
結局、幸斗は声を出せず仕舞いだった。渚もまた以後一度も目を合わせようとせず、隣の友人との雑談を止めぬまま歩道の端を通り過ぎていく。
改めてその露骨な無視を嘆く気持ちと、反面ほっとしたような安堵が幸斗の心の中に大理石模様を描く。
そしてもう一つ、あらゆる意味で無礼な感想も頭をよぎった。先ほどは卓の彼女も美人だと思ったが、やはり渚と比べれば足許にも及ばないな、と。
幸斗の半分程度しか幅がないのではないかと錯覚するほどコンパクトなラインを描く肩。暖色系の電灯に照らされていても、街名物の招き猫以上に白く澄んで映る肌。複雑多岐にふんわりと巻かれた、艶やかな長髪。入学一週目で同級生の大半を魅了してしまった、輪郭線の強い目鼻立ち。
密かに女子力の権化と同性から畏怖されるのも無理からぬ、一縷の隙もない姫キャラの様相であった。
まったくもはや、幸斗たちと行動を共にしていた頃の男勝りな印象などどこにもない。渚もまた、別の意味で生き様を大幅にスライドさせた人間だった。
否。学内ヒエラルキーを瞬く間に駆け上がっていった事実を加味すれば、彼女の変化こそまさに『離陸』と呼ぶべき事象かもしれない。
「ねえ」
冷たい声を背中に受けて、幸斗は髪の毛が逆立つほどびくりとした。恐る恐る振り返ると、単身引き返してきたらしい渚が不機嫌そうに風で乱れる髪を片手で押さえつけながら、冷眼を向けている。
「なん、でしょう?」
思考が漏れていたのではないかと後ろめたくなった幸斗は、うっかり敬語になりつつ、つっかえつっかえに思惑を窺う。それを見てますます渚は不機嫌そうに顔を歪ませた。
しばし、一方的に睨まれるばかりの時間が続いた。いたたまれなくなり何か尋ねようかと惑う幸斗だったが、会話が浮かばない。
濡れたように光沢を放つ渚の唇が、ようやく僅かに離れる。
「ねえ。……アイツ、帰ってきたの?」
そうして幸斗に届けられたのは、そんな質問だった。
「へ?」
「似てるヤツを見たの、昨日。遠くからちらっと目に入っただけだったけど、似てた」
要領を得ない。下手に訊き返すと怒られそうだったが、このままでは埒があかないと幸斗は腹をくくる。
「あいつって、誰のことだ?」
「チッ」
露骨に舌打ちされた。なぜわからないのだと言わんばかりの理不尽な苛立ちをぶつけられ、そろそろ幸斗としても文句の一つくらい返したい気分になってきた。
「もういい」
だがその機会も与えられぬまま、渚はくるりと背中を向けてしまう。
「おい、渚」
「それじゃ。二度と話しかけないで」
呼び止めても聴く耳を持たず、早足でショッピングモールの方へ歩いて行く女子力の姫。
「ざけんな。そっちが話しかけたんだろ」
確実に声が届かぬほど距離が開いてからようやく、幸斗の喉につかえていた不平不満がぽろりと漏れる。