毬井についてのエトセトラ ⑩

「わ。ガクちゃんおはよ! 早かったね。ごめん、もう少し待っててね。あとちょっとで終わるから」


 弟妹にお茶を持ってこさせようとするゆかりを、おかまいなく、と制し、あたしはえんがわこしけた。

 こちらに背中を向けて、自転車に油を差している姿に、ふと、たずねてみる。


「あのさ、ゆかり」

「ん?」

「……あたしとその自転車、どっちが好き?」

「わ? え、わ、わ、わ?」

「…………ああ、いい。やっぱりいい、ごめん、いまの、忘れて」


 わ、わ、わ、わ、とこわれたプレイヤーのように動転しているゆかりに、急いで手を振りごまかしの言葉を口にする。もう片方の手を、薄くおもしろみのない自分の胸に当てながら。

 ……うわ、確かにぐさっときたかも。

 まぁ、いいさ、『しるばぁ』とは小学校からの付き合いらしいし、だからきっと、しかたがないわけで、そうだ、まだまだこれからだ──

 こちらからでは見通せない、丘の向こうを見上げて思う。

 絶対に、負けるもんか。と。


    ◆



『東京バラバラ殺人』事件の『新たなようしや』が、刑事を殺して逃亡した、というニュースが報道されたのは、その日から数えて三日後の、土曜日の朝のことだった。



    12.まりの世界



 虫の知らせがあった、といえればかっこよかったのだろうけど、別になにかの予感があったわけではなかった。

 あたしはどうも、なぎなたを習っているせいか、クラスのみんなから古風な人間だと思われているようなのだが、そりゃ祖母のくんとうよろしく毎朝かみだなに手を合わせはするが、実はれいかん、とか第六感なんてまったく信じていない。


『東京バラバラ殺人』事件の新たなようしやが逃亡した、というニュースを見て、すぐにゆかりのところにかけつけようと思ったのも、超感覚が働いたというわけではなく、単純に、ゆかりがその事件のことを気にしていたのを知っていたからだった。

 そうの進展がわからないことでただでさえ不安だっただろうに、こんなニュースが流れては、きっとどうようしているだろう。

 そばにいれば、少しでも支えになれるかも。安心させてあげられるかも。

 そう考えると矢もたてもたまらず、土曜で休みなのをいいことに、あたしは朝からゆかりの家に向かおうとした。

 もしも本当に虫の知らせが働いていたら、ピンポン、と家のチャイムが鳴ったとき、もしかしてゆかりかな? こわくなってたずねてきた? なんて思って考えなしに門を開けたりしなかっただろう。

 ──そのひとは、えんぜんとしたみを浮かべて立っていた。

 すらっとした長い髪のおねえさんで、思わず胸が高鳴った。その反応を、あたしは最初すごい美人を見たからだと思ったのだが、実際には、心臓がうつたえているのは別のことで、どうを落ち着かせようと大きく呼吸しながらその女性を観察して、あたしはようやく、気がついた。

 写真で見たよりずっと大人おとなびているが、この女性は、──『あのひと』だ。

 あの夜、ゆかりが恐ろしい写真をながめたあと、五人の写真の中から指し示した、あの──

 ──なぎなたで身体からだと心をきたえてきていたはずなのに、指一本、動かせなかった。

 声を出すことすらできず、あたしはただ、スタンガンらしきものが自分のおなかに押し当てられるのを、ていこうもせずながめていた。

 女は笑って、いった。


「そんなに怖がらなくていいわよ? すぐには殺さないから。あなたには、えさになってもらわないといけないからね。

 ……毬井ゆかり、だっけ?

 ──」


 その言葉にようやく、身体からだが動くようになり。

 ふざけるな、と女に飛びかかろうとして──

 そこであたしの意識は、れた。


    ◆


 ──次に目を覚ましたときには、あたしは、どことも知れぬ工場のような場所に寝かされていた。

 正しくは、寝かされているようだったが、自分で自分の状態がよくわからなかった。

 突然体重がなくなったかのように、自分が立っているのか横になっているのかさえはんべつできない。

 寝ている、と判断したのは、目に入っているのが工場の広い天井のようだったからだが、見ているのに理解できないというか、脳が、めんくさがって判断するのを拒否しているようで、それが天井だと断言することすら難しかった。

 頭の中がふわふわして、ぴりぴりして、おなかのあたりがごろごろと、みような感覚。

 顔を回してあたりを確かめようとするが、首がまったく動かない。

 いったいどういうあいしばられているのか──そのまえに、そもそもこうそくされているのか? そんな感じはしないのに頭もまったく動かせず、それでもけんめいに目だけを動かすと、ようやく人影を視界に入れることができた。

 あたしにスタンガンを当てた女が、そこにいた。

 ぐにゃぐにゃとねじまがる悪夢のような光景の中、台のようなものに座り、にやにや笑ってこちらを見下ろしている。

 でも、その憎たらしい顔以上にあたしの目を引きつけたのは、彼女が手に持っているもの。

 彼女はなぜか、『マネキンの腕』を握っていた。

 ぼんやりとしたきりがかかっているようで、妙に現実味の感じられない視界の中、その『マネキンの腕』にはような存在感があった。

 見るまいとしても、どうしても目を離せない。

 ──なぜだろう、あの『腕』に、見覚えがある気がする。すごく身近なものの気がする。

 マネキンの腕に見覚えなんかあるはずないのに、どうしてだろう、どこかで見た気がするのは、よく知っているような気がするのは、『それ』があまりに本物っぽいから? マネキンの腕だと判断したのは『それ』が『腕だけ』だったからだが、よく見ると、ひじのところが真っ赤になっていて、まるで刃物かなにかでたったいま『切断』したばかりのようで、──映画かなにかに使う小道具だろうか? とてもいやな感じがした。

 女が微笑ほほえんで、いった。


「あら、目が覚めた? よかったわね起きられて。……いちおういっておくけれど、もう眠らないほうがいいわよ? 特製のすいをあるだけ使っちゃったから、たぶん、次寝たら二度と目が覚めない。……まぁ、どちらにせよ、あなたは助からないけれど、やっぱり、少しでも長く生きていたいでしょう?」


 ぺろり、と女が『マネキンの指』をめ、それがなんだかエッチで、でもあたしは、目をそらすことはおろかまぶたを閉じることさえできず、女にいわれたことを考えてみる。

 ──麻酔?

 このみような感じはそのせいか?

 でも意識ははっきり、──しているとはいえないが──ああ、なんだかぐるぐるする──


「ああそうそう、これを返しておくわね」


 そういうと、女は『マネキンの腕』をあたしへ向けた。

 それが近づいてきて、ようやく、あたしはその『マネキンの腕』が左腕であることと、その手が携帯をにぎっているのに気がついた。

 ──あたしの携帯? 買ったばかりの?


『マネキンの左腕』から携帯が落ちて、視界から消える。

 位置的に、あたしの胸に落ちたはずだが、感じないのは麻酔のせいか。

 あたしの携帯──思わず涙が出そうになる。

 誕生日にようやく買ってもらって、ゆかりにいろいろ改造してもらった、世界にひとつだけの携帯。

 そうだ、まず携帯で、ゆかりに連絡すればよかった。せっかく一番に登録していたのに、使い慣れていないせいで、こんなことに──

 ──ゆかり?

 気を失う直前に女がいっていたことを思い出し、あたしは声を上げようとする。

 が、唇もやはり動かない。

 特製の麻酔といっていたが、どんな麻酔を使えばこんなことができるのか。

 ……というか、なんでわざわざ麻酔を? こうそくするためならもっと簡単な方法が──

 そのとき。

 女がふいと、横を向いた。

 いったいなにを見ているのだろう、あたしは顔を動かせず、しかたなく、女の表情を見続ける。

 女はなにかを見つめて、唇をななめにし、いった。


「……ようやく、来たわね。遅かったじゃない。この子のこと、てたのかと思ったわ」


 聞きなれた声で、返事が響き。


「ガクちゃん!」


 あたしはようやく、状況を、理解する。

刊行シリーズ

紫色のクオリアの書影