毬井についてのエトセトラ ⑨

 いまさらかくれることもできず、しかたなく、あたしは自転車を押して、天条ななの隣にならぶ。

 まったく、天条のやつ、こんなところでなにをやっているのか──

 ゆかりの家を見下ろすと、ゆかりが庭で、自転車の整備をしているのが見えた。

 今日きようは一日、あたしとサイクリングをする予定。

 まんめんみをたたえてひっくり返した自転車の後輪を回しているゆかりを見ると、思わずほおがゆるんできて、横に天条がいるのを思い出し、あわてて気をめる。

 ……それにしてもてんじようが、あたしのお気に入りの場所にいるのははたしてぐうぜんか?

 それともやはり、この場所のことを知っていたのか?

 なにしろ絶好の場所だから、天条も、ときどきあたしと同じように、ここからゆかりの家をながめていたのかもしれない。

 だったら、あたしが気づいてなかっただけで、これまでもそうぐうしていたかもしれなくて、あたしがけっこう長い時間、ゆかりの家をながめているのも知られていたのかも──そう考えるととてもバツが悪くなり、横に立つ天条をにらみつけるが、その横顔を見て、なにもいえなくなった。

 ゆかりの家を見下ろす天条の表情は、とてもさびしげなものだった。

 いまにも泣き出しそうな、子供のような顔。

 気がつくと、あたしはぶっきらぼうに、いっていた。


「いいかげん、なかなおりしなよ」

「……え?」

「あんたとゆかりに、なにがあったかは知らないけれど、……ずっと引きずっているなんて、もったいない」


 二人は、昔は仲がよかったらしい。

 でも、なにかをゆかりがしてしまい、二人はえんになった。

 正しくは、天条がゆかりを敵視するようになった。

 女の子というものは、ちょっとしたことがけんかになって後を引く──あたしにだって覚えはあるが、それにしても、天条の気持ちはわからなかった。

 たいていの場合の天条は、本当にゆかりをきらっているわけではなく、単になおになれないだけのように思えた。

 が、時おり天条が浮かべる表情は、そんなすいそくを裏切った。

 そういうときの天条は、親のかたきを見るような目でゆかりをにらみ、かいぶつに出会ったような態度になって拒絶した。

 それは、あきらかなぞう

 まだ子供であるあたしにもわかる、れつで激烈で強烈な意思。

 それほどの負の感情を、なにがあったらあのゆかりに向けられるのか。あたしにはまったく想像できない。

 同じ『ゆかり』を見ていても、あたしと天条では、見えているものがちがうのか──

 ぽつり、と天条がいった。


「……とう、あなたは、まだよくわかっていないだけよ」

「またその話? いったい、あたしがゆかりのなにをわかっていないっていうの?」

てつがくてきゾンビ、って言葉、知ってる?」

「……は?」


 思いもよらぬ言葉に、いつしゆんあっけにとられた。

 どこかかわいたみを浮かべて、てんじようは、続けた。


「簡単に説明するとね、赤いりんごを見て、それが赤いということを『知る』ことはできても、『感じる』ことのできない存在、それがてつがくてきゾンビ──とあたしは理解しているわ」

「はぁ」

「哲学的ゾンビは、外見や行動からでは普通の人間とまったく区別ができない存在。……ゾンビって言葉でかんちがいしないで。彼らは『動く死体』なんかじゃなくて、ちゃんと感情を表現する。笑うし、泣くし、怒りもするし、りんごを見て赤くておいしいそうだという。

 ただ、彼らは、本当には、『赤く』も『おいしく』も感じない。

 なぜなら彼らは、『赤さ』や『おいしさ』とかの『具体的かつ感覚的なイメージ』を、もたないから。

 ……そうね、たとえば、あたしたちは、おいしいものをみるとよだれが出てくる。なぜならおいしい、ということがどういうものか、『体験的に』知っているから。でも哲学的ゾンビは、おいしい、ということを『知識として』知っているからよだれを流す。おいしそうだからではなくて、どう反応すればいいか知っているから──結果的には同じでも、これって大きな違いでしょう?」

「……ようするに、ゆかりがそうだっていいたいわけ?」


 あたしの言葉に、天条は笑ってうなずいた。


「正しい意味では違うんだろうけど、そうたい的にはそうじゃない? だって、まりぃがその目で見て、経験しているものは、あたしたちと共有できないんだから。まりぃだけを見るなら、彼女は哲学的ゾンビじゃないかもしれない。でも、まりぃと同じようには見られない、感じられない、同じ『赤さ』や『おいしさ』を共有できないあたしたちにとっては、結局は、──おたがいに、哲学的ゾンビと同じようなもの──

 ──知ってた? まりぃ、人間とプラモデルの区別がつかないのよ?」


 天条の目には、涙がたまっていた。

 静かに涙を落としながら、そのことに気づいたようもなく、天条は続ける。


「このいいかたは誤解をまねくわね。……確かに彼女はニンゲンがロボットに見えるけど、ニンゲンの『ロボット』とプラモデルのロボットの区別はついているわ。……でもそれはね、人間とプラモデル、という区別じゃないの。彼女にとって人間とプラモデルの違いは、大きさとか、高度さとか複雑さとか、りつしているかとか、そういうものでしかないの。生物か無生物か、とか、──生きているか死んでいるか、ですらなく! あたしたちにとっては当然の区別がまりぃにはない──できないの! 彼女にとっては人間も家電もプラモデルも、機能や目的や複雑さが違うだけの、全部同じ存在なのよ! 彼女の目にはあたしたちが、プラモデルと同じに見えているのよ!」


 興奮したのか声を荒げるてんじようを、まっすぐえ、あたしは、こたえる。


「──あんたには、そういうふうに見えるんだ」

「は?」

「でもそれ、──逆に見ることはできないの?」

「──逆?」


 そうだ、逆だ──心の中でつぶやいてみる。

 天条がてきしたことは、あたしだって気づいていた。

 きよくろんすればゆかりにとって、あたしたちとプラモデルにそれほど大きなちがいはないと。

 だからこそ、あたしは、天条の言葉は逆だと思いたい。

 天条から視線をはずし、丘の下の家へと向ける。

 眼下には、両手に軍手をはめて、楽しそうな表情で、自転車の整備をしているゆかり──

 その自転車は名を『しるばぁ』といい、小学校の入学記念に買ってもらってからずっといつしよに遊んでいる、といっていた。

 自分でじよりんをつけ、外し、成長に合わせてサドルを高くし、車体をきようし、タイヤやチェーンをこうかんし──いろいろ改造をほどこしながら中学生になったいまでも大事に使っている、彼女の大切なあいぼうなのだと。

 ──そうだ、逆だ。

 ゆかりにとってあたしたちが、プラモや家電と同じだというわけじゃない。

 ゆかりにとってプラモや家電や自転車が、人間と同じものなんだ。だからあんなに大事にしているんだ。だからあんなに楽しそうなんだ。人間がプラモと同じなんじゃなく、プラモのほうが人間と同じに見えているからこそ──

 これってべん

 そうかもしれない。

 けど、でも、やっぱり、たとえ結果は同じであっても、その二つでは意味がぜんぜん違う気がする──

 ──気がつくと、天条は、まるで目をうばわれたかのように、じっとゆかりの家を見下ろしていた。

 だからあたしは静かに、自転車を押して離れる。


「……まぁ、あんたはあんたの好きにすればいい。天条。あたしは、ただいってみただけだから」


 じゃあ、と、サドルにまたがったとき、声が聞こえた。


とう。あなたも、……これからもあの子と一緒にいる気なら、いつかは知ることになるわ。あの子の本当の怖さを。あたしたちとの本質的な違いを。そのときは、きっとあなたも──これは忠告よ? どう取ってもらってもかまわないけど」

「そう。どうも。じゃあ、またね」


 今度こそ別れをげて、あたしは振りかえらず、自転車を走らせた。


    ◆


 門の前に自転車を止めて、庭へと回る。

刊行シリーズ

紫色のクオリアの書影