この世界には一つの大陸がある。
「パレオ大陸」と呼ばれるこの大陸は、北に万年雪を頂く高山の連なりを、そして南には人の侵入を拒む広大な森林地帯を持っており、その二つの地方に挟まれた平地となだらかな丘陵を持つ広大な土地は、大陸のほぼ中央を南北に流れる大河によって東西に分けられ、それぞれの土地は西域国と東域国と呼ばれる二つの国家によって治められていた。
この国家は、域王と呼ばれる王によって統治され、国内に百数十の都市を擁し、都市には域王とは主従の関係にある総督が置かれ、都市とその周辺の領地を統治していた。
都市には、領地内の治安維持のための警備隊と、領地を他国の侵略から守る国防軍が置かれており、総督は、事あれば域王の勅令のもと、国防軍を率いて参じることになっていた。
しかし、東西二つの域王間の大規模な争いはここ百年起きたことはなく、この世界は平和の中にあった。
パレオ大陸のど真ん中を南北に流れる大河、バンドール川の源流に近いところから分かれた一本の支流が、平野の中央で大きく三つに分岐する場所に、西域国の王都デメララがある。
陸運と水運の両方に恵まれた地理的条件の良さにより、王都建設の地に選ばれただけあって、この街は、この西域国の行政と商業の中心地となった。
この街では、この世界に産するすべての物と情報が取り引きされていた。
物が集まれば人が集まるのは道理である。
大陸が雪で閉ざされる長い冬と、酷暑の夏に挟まれた今の季節は、人と物が最も動く季節であり、石で舗装された王都のメインストリートを人と、荷物と、家畜、そして荷馬車が、ぼこぼこと動き回る様は、巨大なシチュー鍋の蓋を開けた時の様子に似ていた。
しかし、そこからたちのぼるのは、芳香に満ちた湯気ではなく、似ても似つかない異臭に満ちた埃だった。
この、人と家畜と荷物のゴッタ煮の鍋の中からこの街で暮らしている者と、そうでない者とを見分けるのは、とても簡単である。
なぜなら地方から来た者は。
一・無防備である。
二・視線が定まっていない。
三・歩くリズムが他の人と微妙に違う。
という大きな特徴を持っており、こういった人々を、この街の商人たちは親しみを込めて『おのぼりさん』と呼び、下心を込めて、『カモ』と呼んでいた。
その喧騒に満ちたメインストリートの、一本奥に入った裏通りに立っている女の子は、この三つの条件を見事に満たしていた。
年齢は十七、八歳だろうか? 正確に言うならば「女の子」と「女の人」の中間あたり。
痩せっぽちな体、あかぬけない服と不細工なメガネ。そして適当に後ろで束ねた長い髪。
両手で持っている大きな革のバッグは、ぱんぱんにふくれ上がっている。
誰がどう見ても、都会とは無縁の、水と緑と空気がおいしい土地から産地直送されて来たような女の子だ。
彼女は、ついさっきまで、この街のメインストリートを歩いていた。
ネギを背負い、切り身になってタレといっしょに鍋の中に座り込んでいるこんなおいしそうな『カモ』を、この街の商人たちが見逃すはずがない。
商人たちは、手に手に商品を振りかざし、口上を並べながら、この『カモ』を捕まえようとした。
「今流行り! 今流行り! 最先端のファッションビーズだ! さあそこのお姉ちゃん、手に取ってごらん!」
「メチール堂の新品でんがな! この演算機がこの値段でっせ! お姉さん。都で働くならこれからは演算機の一つも使えないと一生お茶汲みで終わりまっせ! 今やったら演算スクール入学金免除や! ただより安いものがあったら言うてみいっちゅうねん!」
「色白美人になりたくなあい? たった三日であなたも見違えるわよん」
都市の喧騒に満ちた人の群れなど見たことも無い彼女にとって、初対面の人間に見境なしに声をかけてくる商人などというものは、想像外の存在だった。
顔も知らない人間に声をかけられまくって、どうしていいのかわからなくなった彼女は、そのまま裏通りに逃げ込んだのだ。
メインストリートの一本裏手になるその通りは、大きな建物や商店の影になるため薄暗く、道に敷き詰められている敷石も心なしか湿っぽい色をしている。
人の姿が無い裏通りは、彼女に安心感を与えたのだろう、周囲を見回したその女の子は、ほっと、安堵のため息を漏らした。
……やっぱり、人がいない方が落ち着くな、人込みは苦手だわ。
その子は、肩からぶらさげてあったポシェットの中から、手書きの地図のようなものが書かれた紙を取り出して、それを開くと、眉をひそめて小声でつぶやいた。
「……えーと、インダストリアン・ギルドの事務所ってどっちだっけ? さっきの通りがアンゴスチュラ大通りで、私が鉄道馬車を降りたのがロンリコ門の前だから……」
そのとき、後ろで声がした。
「そこの彼女、どうしたの? 道に迷ったのかい?」
若い男の声だった。
振り向くと、そこに、十八歳くらいの若者が三人立っていた。
金銀の糸で同じようなデザインの派手な刺繍が施されたジャケットを着込んだその三人組の真ん中にいた、肩まで髪を伸ばした若者が、軽い口調で言った。
「俺たちが道案内してやるぜ、どこに行くつもりなんだ?」
「インダス……」
女の子は、思わず行き先を口にしかけてから、慌てて首を振って答えた。
「いえ、結構です、自分で行きますから」
本音を言えば、道を聞きたかった。しかし、彼女の心の中にある何かが、この男たちを信用しないほうがいい、と告げていた。
それは、本能的なものだったのかもしれない。
髪の長い若者は、女の子に近づくと、親切めいた口調で話しかけた。
「その荷物、重そうだねえ、持ってやろうか?」
「あ、いえ、いいです! そんなに重くありませんから」
慌ててバッグを抱え込んだ女の子を見て、三人の若者たちは、半分嘲笑のような笑い声を上げた。
「安心しなよ、こう見えても俺たちは上級士族なんだぜ、そんなコソ泥みたいなことなんかするもんか」
そう言うなり長髪の若者と、その仲間は着ていた派手な刺繍を施した上着の前を開き、腰にある金銀の糸で装飾された豪華な革のホルスターに入った短銃を見せた。
この世界で「銃」の所持が許されているのは士族だけであり、その中でも銃身の短い「短銃」の所持が認められているのは上級士族だけであることは常識だった。
女の子は、その短銃のフレームに、恐ろしく精緻な彫刻が施されているのに気づいた。
……ハンマーの形状が古いところを見ると、きっとこの人たちの親の持ち物ね。
女の子はにっこり笑って言った。
「あら、それ、キューゼニア工房の短銃ね。それもミラベルタイプ!」
その言葉を聞いた士族の若者たちは、拍子抜けした。
今まで、何十人という田舎出の女の子に声をかけてきたが、たいていの女の子たちは、まず王都で流行しているハンセンゴールドの高価なジャケットを見るだけで、警戒心を解く。
どんな用心深い女の子でも、上級士族の子弟であることの証であるこの短銃を見せれば、ほぼイチコロだった。
短銃は、王都のきらびやかな上流社会のシンボルだったからだ。
なのに目の前にいる女の子は、流行のジャケットに興味を示さないどころか、短銃を見せても、憧れるどころか、冷静に短銃の分析をしてのけた。