時は24世紀。
かつて東京と呼ばれた街の外れの外れ、廃墟ビルが林立する郊外《アラカワ》に、一軒の食堂があった。
その名は《伽藍堂》。
連日客で大賑わいだが、しかし、この店には守るべきルールが三つ。
──ルールその一、《伽藍堂》の敷地半径百メートル内での戦闘を禁ず。
繰り返すが、時は24世紀。もはや地上は無法者の住処である。大いなる厄災と大いなる戦争によって、国は解体。選ばれし民は百年も昔に地下都市メトロポリタン──通称《TOKYO メトロ》に隠れてしまった。今やお天道様の下を歩くのは、マフィア、ごろつき、テロリスト。種々多様な暴力集団が利権とイデオロギーをぶつけあい、日夜鎬を削っている。
しかし、《伽藍堂》は別である。
旨い飯に、喧嘩は要らない。そもそも店を壊すんじゃない。
普段はいがみ合う連中も、《伽藍堂》では黙って席を共にする。昨日身内を殺されていようが、先週金を奪われていようが、一切のいざこざは許されない。
無論、妙な商談もご法度である。休戦地帯だからといって、不法取引の現場にされては元も子もない。ドラッグ、金塊、銃火器類、それが少しでも見つかれば、鉄拳制裁が飛んでくる。
どこから?
それは、もちろん給仕から。
──ルールその二、給仕には逆らうべからず。
《伽藍堂》には一人の恐ろしい給仕がいた。烏羽のような黒髪を長々と伸ばし、身の丈ほどの木刀を一本背負う。しかしてその実態は、齢二十の娘である。
口は悪いし、手も早い。仏頂面が張り付いて、笑顔のサービスなどありゃしない。全ての客に睨みを利かす食堂の守護者は、名をリコリス。リコと呼ばれていた。
実のところ、彼女は《アラカワ》でも指折りの仕事人である。くぐった修羅場は数知れず、奪った命も数知れず。強化機工体の兵士であろうと、不死身のアフリカンマフィアであろうと、あえて彼女に逆らおうとする者などいるはずもない。
とはいえ、おびえることはないだろう。守るべき決まりはあと一つ。
食の基本は礼にあり。感謝に始まり感謝に終わる。
──ルールその三、「いただきます」と「ごちそうさまでした」は必ず言うべし。
なぜなら《伽藍堂》の厨房には、その言葉を待つ者が一人いるからである。
ウカという名の料理人。彼女は愛想の悪い給仕とは月とスッポン。一切の不浄から隔てられて生まれたような、無垢な瞳、純白の肌、金糸の髪。そして何より、リコの胸元にも届かないほどの、小さな背丈。紛うことなき《アラカワ》の天使である。そんな少女が「いただきます」を待っている。言わない道理はないだろう。
言わなければ、怒るのか?
いや、怒らない。朝露をまとった白百合のごとき少女が目くじらを立てるはずもなく、嫌なことがあれば、ちょっぴり目を伏せるだけ。しかし、そんなことがあろうものなら、リコの木刀が振り下ろされる。ウカ様を悲しませるなど言語道断。《アラカワ》の罪でも最たるものにあたるだろう。それゆえ食事の挨拶は大きな声で。厨房に聞こえるほどの「うまい!」も響かせるべし。
第一、《伽藍堂》の飯は旨いのだ。
常連曰く、「人間らしさを思い出す味」である。血で血を洗い、硝煙の臭いが体臭となった者どもが、そう語るのである。普段彼らが口にするのは、出所の知らぬ合成肉や口の痺れる栄養粉末。そんな時代に《伽藍堂》では本物の肉が食える。魚が食える。野菜が食える。それは旨いに決まっている。
無論、大方の人類が撤退した地上に、丸々と太った豚も柔らかな葉を守るビニールハウスもありはしない。人を食らう恐竜やら、毒を吹き出すキノコやら、あるいは電子制御の機械まで、そこにあるものを調理して、美味しくするしか術はない。
ところが、《伽藍堂》ならそれができる。新鮮な食材は狩人のリコが獲ってくる。あとは厨房のウカに委ねるだけ。この天使、決して可愛いだけじゃない。彼女の二つ名は、「《アラカワ》の食の博物館」。いったいどこで学んでくるのか、古今東西あらゆる技法で、思うがままにごちそうを作ってしまう。つまり、驚くことはあれど、疑うことなかれ。その食材、調理法がなんであれ、恐れることはない。たった一口味わえば、あらゆる疑念は解きほぐされ、至上の口福が待っているだろう。
ともあれ《伽藍堂》とは、闘争と狂乱の時代に花咲いた、奇蹟の食堂である。
そしてそんな食堂で繰り広げられるのは、戦いと人情と旨い飯の物語。
リコとウカの風味絶佳な人生である──。