第二話 竜と親子と不老不死 ②

 リコが大きないきを漏らすと、不意にウカが立ち上がり、リコの隣に腰を下ろした。それから始まるのは朝食後のいつもの日課。ウカはリコの長い黒髪にくしを入れ始める。寸前とは打って変わって《らんどう》の静かなひと時である。再び二人の耳元に激しい雨音が帰ってくる──……

 かと思われたのだが、


「ねえ、リコちゃん……もしかして昨日シャワー浴びないで寝たの?」


 食堂に満ちたぬるい空気を断ち切るような、冷ややかなウカの声。


「……覚えてるわけないじゃん」

「髪の毛から漂う、このほうじゆんどうの香りは……?」

「ま、まあ、いいじゃんか。香水みたいでさ」

「……」


 背後で高まる怒りの波動にリコの肌が自然とあわつ。それもそのはず。ウカは清潔かつおしや好き。身だしなみに関しては人一倍厳しいのである。


「……リコさん、今からシャワー浴びましょうね? 仕事までに時間あるんだから」


 突然の敬語が恐ろしい。リコは慌てて立ち上がった。


「いや、いいんだよ。どうせ狩りで汚れるんだから──って、おい、離せ、ウカ!」


 逃げようとするリコを背面から羽交い絞め。ウカは両手をリコの首の後ろでしっかりと組み合わせ、クラッチした。もはやリコは身動きが取れない。


「……シャワー……清潔……キレイキレイ……」

「わ、分かったから! 耳元で妙な呪文をささやくな!」


 圧倒的な同居人の迫力にリコは素直に腕をタップ。降参の意を示す。ウカは拘束を解くと、逃げる隙を与えずにリコの手を取り、満足げに浴室へと歩き出した。


「──ちなみに、あのまま背後にブリッジする感じで、リコちゃんの首を床にたたきつければフィニッシュなんだよ? 大戦前に存在した《プロレス》って古典芸能では、ドラゴン・スープレックスと呼ばれてたの」

「……いや、誰も聞いてないし……ってか、ほんとそんなに動けるなら、ウカが自分で竜をフィニッシュしに行けよな!」

「わたしの身体からだは繊細だもん。したら危ないし」

「あのなぁ……」


 リコには既につっこむ余力も残っていない。文句はなんとか口元までせり上がって、しかしウカの実に晴れやかな横顔を見ると、諦めの苦笑にすり替わった。この後、一人で洗えるから放っておいてくれと言うリコに、自分が洗った方が早いと主張するウカのひともんちやくがさらにあったりするのだが、それもこれもいつものこと。《らんどう》は嵐に負けじとにぎやかである。


    2


 鉄条網の屋根に守られし《アラカワ》中央市場。翼竜を始めとした凶悪な動植物から人間を守るために造られたその空間も、雨風には無関心である。乱暴に張り渡された網の隙間から、細やかな滝が束となって落ちている。道には大きな水たまりがしようのように広がり、道行く人々はビルの軒先に身を潜めるようにして歩いていた。

 しかし、雨がひた降り泥が泡立つその真ん中を、肩をいからせ歩く娘が一人。CNTの戦闘服ばかりでなく、みずみずしい肌の上で雨粒が滑り落ちるその姿。ものげな表情一つで十分に人の目を引くはずが、そうはならないのが《らんどう》のリコである。触れればバリバリと静電気を放ちそうなほどに殺気立ち、褐色の水を跳ね飛ばして進んでいく。

 元々気性が荒いとはいえ、始終青筋を立てているわけではない彼女が、何故なぜこんなにも怒っているのか。今日において、その理由は一つのみ。


「あー、くそっ! なんでバニラのせつけんなんて使うんだよ!」


 朝のシャワーを浴びながら、同居人の自家製せつけん、そのスウィートでクリーミーな香りに気付いた時は、後の祭り。隣のせつけんも、その隣のせつけんも、全て取り換えられていた。とはいえ浴室から逃げれば、ドラゴン・スープレックスが待ち受ける。前門のバニラ、後門の竜である。リコは仕方なく甘い香りに耐え忍ぶことを選んだのだった。

 野外市場の中央に入ると、リコは多少気がまぎれる。なぜなら、そこは屋台の海。数多あまたきっぱらが流され、よどみ、腹を満たしては消えていく。尽きせぬ体臭とこうをくすぐる芳香とが入り混じり、バニラの匂いも気にならない。

 そんな雑踏の中を歩いていると、前方から巨大なたこが現れた。たこ? いや、蜘蛛くも? 要は八つ肢の多脚機工体をギュインギュインとかき鳴らし、近づいてくる男が一人。腰から下は機械でも、腰から上は太鼓腹。ウカいわく、そういう人間はかつて「RIKISHI」と呼ばれたらしい。

 この肥満体、名をカクタスと言った。

 彼はリコを見つけると、「おおい」と手を挙げる。雑踏をかき分け、目の前までやってくると、なにやら脂ぎった笑みを浮かべていた。


「おいおい、どうした、リコ、色気づいてんなあ? 菓子みたいな香りをプンプンさせやがって。どうぞ私を食べてくださいって──」


 言い終わる前に吹き飛ぶ、一本のたこあし。木刀によるよこぎである。

 リコが二本目に向けて振りかぶったために、カクタスは慌てて引き下がった。


「やめろやめろ! おめぇなあ、これ、いくらすると思ってんだ!」

「うっさい! 知るか!」


 リコの目は据わっている。しかし、そこで間に入ったのは、よれた黒いスーツをまとう黒眼鏡の屈強な男。腰から拳銃を抜き出し、リコの頭に突きつける。


「お前、カクタスさんに何しやがんだ!」

「はあああああああああ? けん売ってきたのはそっちだろうが!」


 リコが銃口を正面からつかみ取り、男をにらみ返す。その気迫にまれた彼は思わず、

 ──バン、バン、バン。

 市場に響く銃声。リコの頰を弾がかすめ、皮一枚がぺろりと切れる。真っ赤な血がつつと流れ、顎まで伝った。

 が、こんなことで止まるわけもない。リコはそのまま銃身を握りつぶし、めきめきと音を立ててフレームが砕けてゆく。


「ひ、ひぃぃい!」


 情けない男の悲鳴に、傍観していたカクタスは大きないきを一つ漏らした。そして、たこあしの一つで男の襟首をつかむと、足がつかないほどにるしげる。


「おい、どうしてくれんだ。てめぇのせいで、大切な自動拳銃QSZがぶっ壊れたじゃねえかよぉ」

「い、いや、壊したのはそこの女で」

「壊されると分かり切ったやつに突っかかるお前が能無しなんだろうが! こいつの顔くらい、覚えておけ! このタコが!」


 黒スーツの強面こわもて眼鏡男は、そのままたこあしでひょいと放り投げられ、屋台のごみ山に顔を突っ込んだ。ぴくぴくと足先が震えているから、死んではいないだろう。

 リコは銃の破壊ですっきりしたのか、親切にもその残骸を拾い上げ、カクタスに向かって放り投げる。


「……なんなのあいつ、新入り?」


 カクタスはたこあしで器用にそれを受け取り、機工体に取り付けられた小さな引き出しに収納した。そして嘆くように首を振る。


「春の新卒採用ってやつだ。今日の仕事にゃ、ちと早かったな」

「経営者も大変だな」

「お前に毎日備品をぶっ壊されてた頃よかマシだよ」


 カクタス。またの名を、「《アラカワ》の暴食蛸クラーケン」。

 アジア系暴力組織《シード》の北東地区幹部であり、リコの元上司である。リコがよわい七つの身空で組織に転がり込んでから、かれこれ十年以上の付き合いになる。今ではフリーとなったリコも、カクタスの依頼はさすがに断れない。それくらいの恩義がある。


「それで、仕事の内容は? 竜を狩るんだろ? オレだって、そっちの新人教育の出汁だしになってる暇はないんだけど」

「まあまあ、そうあせるな。まずは飯だ。腹が減って仕方ねえ」

「まだ十時だぞ。仕事終わりに食うんじゃねえの?」

「十時のおやつに決まってるだろうが。お前の匂いを嗅いだら、甘いもんが食いたくなった」


 がしょん、がしょん、とたこあしの機械音を響かせながらカクタスは市場をかつする。機工体の人間でも使えるスタンドの高い屋台を見つけると、カクタスはれんをくぐるなり、「蜜がけ四つだ」と注文した。リコは足の高すぎる椅子によじ登り、「オレはお茶でいいや」と言う。

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ヒトの時代は終わったけれど、それでもお腹は減りますか?(2)の書影
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