日直の号令に合わせて、「いただきます」をしてから約六分。俺が牛乳にストローを刺したタイミングで、他の班から歓声が上がった。どうやら、決着がついたらしい。
「今日もダイキ君が一番だったみたいだね」
向かい合って座るマコトが言った。それを聞いた俺は、一班のほうに目を向ける。すると、勝負に負けたヤッチが、ほんの少しだけ悔しそうな顔をしていた。誰が勝っても負けても俺には関係なかったけれど、ヤッチが勝てなかったことを少し残念に思った。
ウチのクラスには、ひとり学校に来ない子がいた。詳しい事情は知らない。ただそのせいでいつも一人分の給食がまるごと余った。他のクラスなら、まず残ることのないデザートも含めて。そのデザートを狙って、いつからか《争奪戦》が始まっていた。
ルールは単純明快。早い者勝ち。全て食べ終わった人から、おかわりできるのだ。デザートも例外ではなく、最初に完食した人に権利が与えられる。それが、五年二組のルールだった。毎日、数人の男子がデザートを巡って、早食い競争を繰り広げていた。
でも、これはあくまで表面上の話。実のところ、勝者はほとんど決まっていたのだ。
その勝者というのは、運動も勉強も得意なダイキだ。単純に食べるのが早い、というわけではない。確かに食べるのも早かったが、それ以上に「クラスでの立場が強い」ということのほうが大きかった。周囲が恐れをなして、ダイキに勝ちを譲るのである。
クラスの男子は、ダイキに目をつけられることを恐れていた。ダイキの反感を買うと、酷い嫌がらせをされるのだ。今日も図工の時間に、ダイキの落とした絵の具をあやまって踏んでしまったトモヒロが課題の絵を台無しにされていた。ダイキが直接手をくだしたのではない。彼には数人の取り巻きがいて、そいつらにやらせるのだ。
こうした力関係があるせいで、いつしか給食争奪戦においても、クラスの男子はダイキに気を使うようになっていた。要は二番手狙い。ダイキが気まぐれに権利を放棄するおこぼれを狙っているのだ。
争奪戦と言いつつ、中身はとんだ《茶番》だった。
しかし、そうした暗黙のルールがあるなかで、無神経にもダイキを差し置いて一番をかっさらうヤツがいた。それが、ヤッチだった。「空気を読む」ということを知らず、デザートが食べたいから勝負に勝とうとする、という分かりやすい性格だ。その分かりやすさが周囲を安心させるのかもしれないし、楽しい気持ちにさせるのかもしれない。とにかく不思議なヤツで、口数は多くないけれど男女両方に人気があった。負けず嫌いのダイキも、ヤッチに先を越されたときだけは、「ヤッチ、早過ぎ」とかいって笑っているのだった。
そんなわけでウチのクラスでは、ヤッチが勝負に勝つという例外を除いて、欠席者のデザートはダイキが手にするというシステムが出来上がっていたのである。
給食は班ごとに机をくっつけて食べることになっていた。すでにクラスのほとんどが食べ終わっていたが、「ごちそうさま」の挨拶までは、その状態でいることになっている。
「明日は、オレンジゼリーだよ。パンの日だから、ヤッチが勝つかもね」
目の前に座るマコトが、手元の献立表を見ながら言った。ヤッチはパンの日に異常な強さを見せるのだ。それにしても献立表を持ち帰らずに、いつも机の中に入れているなんてマコトは変わっている。献立表の《バレンタイン》という文字が、チラリと見えた。
その瞬間、自分の体が緊張したのが分かった。思わず、ゴクリと唾を飲み込む。
これまで、俺はデザートの争奪戦に参加したことはなかった。ダイキに気を使った出来レースに参加するのは馬鹿らしかったし、かといってヤッチのように一番を狙いに行く勇気はなかった。たまに、デザート以外のメニューをおかわりする程度だったのだ。
もちろん、目の前に座っているマコトも不参加組。こいつは特に気の弱いヤツだから、おかわり自体を一切しない。目立つことを極端に嫌うのだ。争奪戦に参加するのが怖いというならまだしも、おかわりすることの何が怖いのだろうかと、不思議に思う。
日直の号令に合わせて「ごちそうさま」をした後、ダイキとその取り巻きが体育館に遊びに行ったのを見計らって、俺はマコトに言った。
「バレンタインのチョコレートケーキは、俺がゲットするよ」
マコトは一瞬、意味が分からなかったようだ。無理もない。このクラスでダイキを差し置いてデザートを手にすることは、自殺行為に等しいのだ。
冗談だと思ったのか、マコトは曖昧な笑顔を浮かべている。
「なに、その冗談。全然、笑えないけど」
「冗談じゃないよ。ダイキにケーキは渡さない」
俺があまりに直接的に宣言したからか、マコトが息を吞んだのが分かった。そして、周囲を気にしながら、声のボリュームを落として聞き返してくる。
「テッちゃん、本気?」
マコトは俺のことを《テッちゃん》と呼ぶ。俺の名前が《鉄》だからだ。俺はマコトのほうを真っすぐ見据えて、はっきりと答えた。「本気。もう決めたんだ」
毎年、バレンタインの日にだけ登場するチョコレートケーキは、誰もが認める人気ナンバーワンメニューだった。給食とは思えない高級感が漂っていて、ひと口食べただけでほっぺたが落ちそうになる。これまで食べたどんなケーキよりも美味しかった。
ダイキは、そのケーキを今年は二個食べられると思っているに違いない。これまでダイキはどうしても欲しいデザートのときにはズルをしていた。裏で手をまわし、ヤッチの給食を大盛りにすることで競争を有利に運んでいたのだ。しかし、今年のバレンタインはそうはさせない。ダイキには渡さない。俺はケーキを奪うことを誓った。
俺が危険を冒してまでチョコレートケーキを狙うのには、理由があった。それは、昨年のクリスマスのこと。俺は不覚にも風邪を引いて学校を休んでいた。その日のデザートはクリスマス特製プリンで、ケーキに負けず劣らずの人気メニューだった。
この日、プリンの余りは二個。いつものように争奪戦となり、ダイキとヤッチがそれを手にした。ただ、ヤッチはそれを自分では食べずに、「鉄に持って帰りなよ」とマコトに渡してくれたらしい。ヤッチのこうしたさりげない優しさが、俺は好きだった。
でも、プリンがウチに届くことはなかった。ダイキがマコトの気の弱さにつけこんで、このプリンを横取りしたのだ。「自分のほうが鉄の家に近いから」と言ったという。
俺はこの話を風邪が治ってから知った。これには腹が立った。余り物の争奪戦で、周囲が勝手に譲る分には良い。だが、これはあまりにも卑怯だ。許せなかった。
なにより、マコトが可哀そうだった。プリンを死守できなかった責任を感じて、「テッちゃん、ゴメン」と何度も謝ってきた。謝りながら、泣いていた。マコトが悪いことなんて一つもないのに。こんなに心の優しいヤツを傷つけたダイキが憎かった。
このままでは終われない。そう思った俺は、《リベンジ》を決心した。ダイキが一年で最も欲しているチョコレートケーキを横取りしてやろうと決めたのだった。
俺はケーキを狙うに至った理由を、マコトに伝えるつもりはなかった。わざわざ、苦い記憶を思い出させる必要はない。代わりに、ひとつ約束をした。
「ケーキをゲットできたら、半分やるよ」
「良いの?」マコトの顔がパッと明るくなる。「ヤッター。ぼく、応援するよ」
「なんだよ、ケーキもらえなきゃ応援しないつもりだったのかよ」
俺が意地悪く言うと、マコトは必死に弁解した。ほんの冗談のつもりだったのに、マコトがあまりに必死に否定するのが、おかしかった。
昼休みが終わって、五時間目は算数だった。俺はノートを開いていたけれど、先生の話はほとんど聞いていなかった。どうやって、ダイキに勝とうかと考えていたのだ。