浅羽はその場にしゃがみ込んだ。前の晩からの一大決心をしてアダルトビデオを借りにとんでもなく遠くのビデオ屋に出かけ、「これだ!」と思うパッケージに手をかけたそのときに財布を忘れてきたことに気づいた、あのときの落胆に似ていた。
突飛な考えが頭をよぎる。
こうなったら、素っ裸で泳ぐか。
そのくらいの無茶はやってやろうか。
夜中に学校のプールで素っ裸で泳ぐというのは何だかすごく気持ちのいいことであるような気が一瞬だけして、自分には露出狂の気があるのかと不安になる。やはり素っ裸はまずい。何か海パンの代わりになるようなものはないかと、闇雲にバッグの中をあさった。
くしゃくしゃに丸めた短パンが出てきた。
シュラフの中で眠るときにはいていた、学校指定の体育の短パンだ。
周囲に誰もいないことをもう一度確認して、浅羽はそそくさとズボンとトランクスを脱ぎ、短パンをはいてみた。Tシャツも脱いで己が姿を見下ろす。らしくないポケットがついているし、海パンと違ってインナーがないのでやけにすーすーする。
でも、そんなにおかしくはないと思う。
せっかくここまで来たんだし。
腹は決まった。脱いだものをバッグに蹴り込んで浅羽は更衣室の中に入った。かろうじて見分けられるロッカーの輪郭を伝って、塩素の匂いのする湿っぽい暗闇の中を手探りで進んだ。シャワーも消毒槽も素通りする。濡れた床の滑りやすさを足の裏で意識しながら、去年の夏に三宅がコケて血塗れになったのって確かこのへんだったよな、と思う。せんせーおれしぬのーしぬのー、という泣き声までが生々しく蘇り、浅羽はひとり心の中で詫びた。すまん三宅、あのときのお前はめちゃくちゃ面白かった。
スイングドアを押し開けて、夜のプールサイドに出た。
そこで、浅羽の思い出し笑いは消し飛んだ。瞬間的に足元がお留守になって、のたくっていたホースを踏んづけて危うく転びそうになった。
夜のプールサイドに、先客がいたのだ。
女の子だった。
まず、縦25メートル横15メートルの、当たり前の大きさのプールがそこにある。幻想的なまでに凪いだ水面そのものよりも、何光年もの深さに映り込んでいる星の光に目の焦点を合わせる方がずっと簡単で、まるでプールの形に切り取られた夜空がそこにあるように見える。更衣室の暗闇から出てきたばかりの浅羽の目に、その光景は奇妙なくらいに明るい。奇妙なくらいに明るいその光景の中で、女の子は浅羽に背を向けて、プールの手前右側の角のところにしゃがみ込んで、傍らの手すりをしっかりとつかんでいる。スクール水着を着ている。水泳帽をかぶっている。真っ黒い金属のような水面をひたむきに見つめている。
誰だろう、とすら思わなかった。
あまりにも意外な事態に出くわして、何も考えられなくなってしまった。
まるで棒っきれのように、浅羽はただその場に突っ立っていた。
誰にも見つからないように気をつけてはいたが、どうせ誰もいはしないと高をくくっていたところもある。更衣室のドアだって無理矢理開けたし、足音ひとつ立てずに歩いてきたというわけでもない。その女の子が最初からずっとそこにいたのなら、そうした物音が聞こえなかったはずはないと思う。なのに、少なくとも見る限りでは、女の子が浅羽の存在に気づいている様子はまったくない。浅羽に背を向けたまま、身動きもせずにひたすらプールの水面を見つめている。その背中には言い知れぬ真剣さが、これから飛び降り自殺でもするかのような緊張感が漂っている。
女の子が動いた。
右手で手すりにしっかりとつかまりながら、左手を伸ばして水面に触れた。
何かの実験でもしているかのような慎重さで、女の子は指先で小さく水をかき回す。木の葉一枚浮かんでいない水面に波紋が幾重にも生まれ、波紋はレーダー波のように水面を渡って、プールの縁に行き着いて反射する。その様子を、女の子はじっと見つめている。
誰だろう。
やっとそう思った。
うちの学校の生徒だろうか。スクール水着は学校指定のもののように見えたが名札がついていない。歳は自分と同じくらいだと思うが後ろ姿だけでは断言もできない。女の子の斜め後ろには大きなバッグが投げ出すように置かれている。その周囲には服が生々しく脱ぎ散らかされている。それはやはり、女の子のバッグであり、女の子の服なのだろう。
思う。
ということはつまり、女の子はこのプールサイドで水着に着替えたのだろうか。
ものすごく思う、なぜ自分は人間として生まれてきてしまったのか。なぜ自分は、力いっぱい指差して叫びたい、足元にのたくるこのホースとして、そこの壁に立てかけられたデッキブラシとして生まれてこなかったのか。誰もいない夜の学校の誰もいない夜のプールで、ひとりの女の子が星の光に照らされながら着ているものをゆっくりと一枚また一枚
そこから先を、浅羽は意志の力で捻じ切って捨てた。
女の子の後ろ姿に漂うあまりの真剣さに、浅羽は急に居心地が悪くなってきた。ろくでもない妄想を抱いたことを恥ずかしく思う。女の子がなぜここにいて、何をしているのかはわからない。しかし、女の子がこちらに気づいていないというのはひどくアンフェアなことであると思った。自分に悪気はなくてもこれではのぞきと一緒だ。
声をかけよう、と決めた。
自分の存在を知らせよう。
そう決めて、何と声をかけたらいいのか、言葉の組み立てもつかないままに、浅羽は息を吸い込んだ。
タイミングが悪かった。
浅羽が吸い込んだ息を声にして吐き出そうとしたまさに瞬間、女の子がいきなり立ち上がろうとした。長いことしゃがみ込んでいたのか、女の子は立ち上がりかけて少しだけよろめき、
「あの、」
浅羽のそのひと言に飛び上がらんばかりに驚いて、女の子は全身で背後を振り返ろうとして、ただでさえ危うかった身体のバランスがとうとう木っ端微塵に崩れた。
一瞬だけ、目が合った。
驚きに見開かれた目の白さを宙に残して、女の子はお尻からプールに落ちた。
派手な水音とともに、大粒の水しぶきがプールサイドのタイルに散った。
浅羽も慌てた。事態の急展開に怖じ気づいた。このまま逃げちまおうかと思う。混乱した目つきで周囲を見回して、当たり前の事実に今さら気づく。プールは薄っぺらで背の高い壁に囲まれているのだ。マジックミラーでもあるまいし、外からこちらが見えないということは、こちらからも外が見えないということなのだ。宿直の先生か誰かが今にも怒鳴り込んできそうな気がする。
逃げよう。
さんざん躊躇った挙げ句にやっとそう決めて、更衣室の方に回れ右しようとした浅羽の足が止まった。
水音がいつまでも止まない。
女の子が水の中で暴れている。ときおり、腕や足が思いがけない角度で水面を割って突き出され、水面を叩いて沈む。
ふざけているのかと思った。
本当に溺れているらしいと気づいてからも、たった今まで逃げ腰になっていた身体はすぐには動いてくれなかった。あたふたとプールに駆け寄って、そのまま水の中に飛び降りる。足から飛び込んだせいで短パンの中に空気が溜まって、水中でカボチャのように膨れた。両手で水をかき分けながら歩き、女の子の手足が跳ね散らすしぶきに片目をつぶりながら手を伸ばし、大きな声で、
「ほらつかまって、ここなら」
足がつくだろ?、そう言おうとした瞬間に女の子にしがみつかれた。プールの底で足が滑り、驚きの声を上げる間もなく浅羽の頭は水中に没した。
真っ暗で何も見えない。
女の子にしがみつかれて自由な身動きが取れないし、もちろん息はできない。
パニックに陥った。