第三種接近遭遇 ③
あっという間にわけがわからなくなった。手を伸ばせば届くはずのプールの
プールの縁に指先が触れた。
プールの底に爪先が触れた。
どうにか体勢を立て直してた。やっとのことで二人の頭が水の上に出る。気道に入ってしまった水に
そして浅羽は顔を上げ、
目が合った、どころではなかった。
タバコ一本分もない、生まれて初めての至近距離に女の子の顔があった。
二人ともいまだに呼吸が荒く、二人ともいまだに抱き合ったままだった。二人が散々にかき回した水の動きに、二人の身体が小さく揺られていた。
浅羽よりも少し背が小さい。水泳帽の縁からはみ出た髪の先から
現実の出来事とは思えない。
少しだけ首をかしげ、女の子が何か言おうとした。
まだ言葉を
そして、
「っ」
いきなり、浅羽と密着していた女の子の身体にぎゅっと力がこもった。浅羽から半歩だけ身を離し、顔をそむけて両手で鼻と口を
それがきっかけになって、目の前の女の子の顔に見とれていた
けふ、と女の子がむせた。
「!!、あ、わ、うわ!、あの、」
みっともないくらいに慌てふためく浅羽を上目づかいに見つめ、女の子は、やっと聞き取れるくらいの声で、
「はなぢ」
そう言って、片手で水をすくい、鼻から口元へと伝い落ちていく血を
しかし、浅羽にとってはどっちでも同じようなものである。
とにかく、自分が何とかしなくてはならない。
そのことに変わりはなかった。
浅羽はロケットのような勢いでプールから上がり、プールサイドに置かれている女の子のバッグに駆け寄った。脱ぎ散らかされている服の方はできるだけ見ないようにして、幅が親指ほどもあるごついジッパーに手をかけた。頭の中の慌てふためいている部分は「タオルぐらいは入っているだろう」と考えており、わずかに残っていた冷静な部分が「女の子っぽくないバッグだな」と考えていた。色は暗い緑で、固い手ざわりの頑丈な素材でできていて、でっかいポケットがいっぱいついている。
錠剤が一杯に詰まった、ジュースの缶ほどの大きさの、プラスチック製の
見てはいけない物を見てしまった。
そう思った。
浅羽はあたふたとジッパーを閉めてしまった。なにしろ慌てていたし、大量の薬が詰まった瓶のインパクトに目を奪われていたし、それ以上はろくに見もしなかった。だから、薬の瓶のすぐ
バスタオルを手に、できるだけさりげない表情を顔に、浅羽は大急ぎでプールに駆け戻った。女の子はようやくプールから上がろうとしているところで、それはまるで鉄棒に足をかけてよじ登ろうとしているようなスキだらけの格好で、浅羽はじろじろ見てはいけないという一心から不自然なくらいにそっぽを向き、
「これ」
バスタオルを差し出した。
しばらくしてから
どうしよう、と思う。
現実から足を一歩だけ踏み外しているような感覚がいまだに続いている。正直なところ、なんだか気味が悪い、とも少しだけ思う。「じゃあぼくは帰るから」と告げて、とっととこの場から立ち去りたいという気持ちは、心の中で決して小さくはない。
だけど──
女の子がじっと浅羽を見つめている。浅羽は再びそっぽを向く。
このままここに残していったら、この子はいつまでもこうしてプールの縁に座っているのではないか、という気がする。
「見た?」
いきなり、女の子がそう尋ねた。
浅羽は不意を
近からず遠からずの距離を目で測って、浅羽は女の子と同じようにプールの縁に座った。
「──病気なの?」
女の子はほんの
「名前は?」
女の子が答える。
「いりや」
何を言っても外国語のように
「──それ、名前?
ひと呼吸おいて、女の子はこう答えた。
「いりや、かな」
『
女の子は浅羽の次の言葉をじっと待っている。
何か言わなければ、と浅羽は思う。
「──泳げないの?」
言ってしまってから、もうちょっと実のあることを聞けないのかバカめ、と自分でも思う。泳げないに決まっている、さっき
目を合わせないようにしている
何か言わなければ、と浅羽は思う。
思うのだが、切れ端のような言葉でしか
「およげる?」
いきなり、女の子がそう尋ねた。
あなたは泳げるのか、と質問しているのだ。そのことを理解するまでに少しかかった。
そして、そのひと言が突破口になった。
「──あのさ、もしよかったら、」
この子は泳げない。そして、得意中の得意というわけでもないけれど、自分は泳げる。
その点において自分は、多少なりともいいところを見せられる。
「教えてあげるよ、泳ぎかた」
浅羽はそう言った。



