第三種接近遭遇 ③

 あっという間にわけがわからなくなった。手を伸ばせば届くはずのプールのふちがどこにあるのか、どっちに水面があってどっちに底があるのか、自分の身体からだは上を向いているのか下を向いているのか。太平洋の真ん中でもがいているのと同じだった。女の子を一度振りほどこうとするのだが、浅羽が身をもがくと女の子の方はますます必死になってしがみついてくる。信じられないくらいの力だった。このままでは自分もおぼれると浅羽は本気で思った。ここは足がつくのだ、ここはプールの縁のすぐそばなのだ、けんめいに自分にそう言い聞かせ、両足と片腕で夢中になって水の中を探った。

 プールの縁に指先が触れた。

 プールの底に爪先が触れた。

 どうにか体勢を立て直してた。やっとのことで二人の頭が水の上に出る。気道に入ってしまった水にき込みながらも、助かった、と身体中で思う。さっきまでは底無し沼だったはずのプールは、ちゃんと足をついて立ってみればやっぱり浅羽の胸元くらいまでの深さしかない。はは、と小さく笑う。

 そして浅羽は顔を上げ、

 目が合った、どころではなかった。

 タバコ一本分もない、生まれて初めての至近距離に女の子の顔があった。

 二人ともいまだに呼吸が荒く、二人ともいまだに抱き合ったままだった。二人が散々にかき回した水の動きに、二人の身体が小さく揺られていた。

 浅羽よりも少し背が小さい。水泳帽の縁からはみ出た髪の先からしずくが滴っている。自分以外の人間なんか生まれて初めて見たとでも言いたげな表情で、浅羽をまっすぐに見つめている。だれもいないはずの夜の学校の、誰もいないはずの夜のプールで、見知らぬ女の子と、星の光に照らされながら、

 現実の出来事とは思えない。

 少しだけ首をかしげ、女の子が何か言おうとした。

 まだ言葉をおぼえていない幼児がもの問いたげに発する声のようにも、外国語の感嘆詞のようにも聞こえた。

 そして、


「っ」


 いきなり、浅羽と密着していた女の子の身体にぎゅっと力がこもった。浅羽から半歩だけ身を離し、顔をそむけて両手で鼻と口をおおう。

 それがきっかけになって、目の前の女の子の顔に見とれていたあさは一挙に現実に引き戻された。自分はそんなにへんな匂いがするのだろうかと思ってろうばいし、ひそかに手のひらに息を吐きかけて口臭の有無を確かめ、

 けふ、と女の子がむせた。

 おどろきのあまり死ぬかと思う。女の子が血を吐いている。口元を押さえている手の指の間から、血がしたたり落ちている。


「!!、あ、わ、うわ!、あの、」


 みっともないくらいに慌てふためく浅羽を上目づかいに見つめ、女の子は、やっと聞き取れるくらいの声で、


「はなぢ」


 そう言って、片手で水をすくい、鼻から口元へと伝い落ちていく血をぬぐう。血を吐いているのかと思ったのは浅羽の勘違いで、よく見れば本当に鼻血だった。

 しかし、浅羽にとってはどっちでも同じようなものである。

 とにかく、自分が何とかしなくてはならない。

 そのことに変わりはなかった。

 浅羽はロケットのような勢いでプールから上がり、プールサイドに置かれている女の子のバッグに駆け寄った。脱ぎ散らかされている服の方はできるだけ見ないようにして、幅が親指ほどもあるごついジッパーに手をかけた。頭の中の慌てふためいている部分は「タオルぐらいは入っているだろう」と考えており、わずかに残っていた冷静な部分が「女の子っぽくないバッグだな」と考えていた。色は暗い緑で、固い手ざわりの頑丈な素材でできていて、でっかいポケットがいっぱいついている。そのはら基地の兵隊が持ち歩いているバッグに似ていた。ジッパーを一気に引き開け、一番上に入っていたバスタオルを引っぱり出して、そのすぐ下に入っていた物を目にして思わず息をんだ。

 錠剤が一杯に詰まった、ジュースの缶ほどの大きさの、プラスチック製のびんが三本。

 見てはいけない物を見てしまった。

 そう思った。

 浅羽はあたふたとジッパーを閉めてしまった。なにしろ慌てていたし、大量の薬が詰まった瓶のインパクトに目を奪われていたし、それ以上はろくに見もしなかった。だから、薬の瓶のすぐとなりに、口径が9ミリで装弾数は十六発の「もっと見てはいけない物」のグリップが突き出ていたことに、浅羽はついに気づかなかった。

 バスタオルを手に、できるだけさりげない表情を顔に、浅羽は大急ぎでプールに駆け戻った。女の子はようやくプールから上がろうとしているところで、それはまるで鉄棒に足をかけてよじ登ろうとしているようなスキだらけの格好で、浅羽はじろじろ見てはいけないという一心から不自然なくらいにそっぽを向き、


「これ」


 バスタオルを差し出した。

 しばらくしてからあさが視線を戻すと、女の子の上目づかいの視線にぶつかった。両足を水に入れたままプールのふちに座って、肩にかけたバスタオルの両端で鼻を押さえている。鼻血はもう収まりかけているようだったが、バスタオルを染める赤にどきりとする。

 どうしよう、と思う。

 現実から足を一歩だけ踏み外しているような感覚がいまだに続いている。正直なところ、なんだか気味が悪い、とも少しだけ思う。「じゃあぼくは帰るから」と告げて、とっととこの場から立ち去りたいという気持ちは、心の中で決して小さくはない。

 だけど──

 女の子がじっと浅羽を見つめている。浅羽は再びそっぽを向く。

 このままここに残していったら、この子はいつまでもこうしてプールの縁に座っているのではないか、という気がする。


「見た?」


 いきなり、女の子がそう尋ねた。

 浅羽は不意をかれて言葉に詰まった。血を見て慌てていたとはいえ、断りもなくバッグを開けてしまったのはまずかった、と浅羽は思う。それに、こうもはっきりと聞かれてまだとぼけるのも、なんだかズルいような、男らしくないような。

 近からず遠からずの距離を目で測って、浅羽は女の子と同じようにプールの縁に座った。


「──病気なの?」


 女の子はほんのいつしゆんだけ、ほんのわずかにげんそうな顔をして、すぐに首を振った。その後に何か説明があるのだろうと思って浅羽は続く言葉を待ったが、女の子はそれっきりだまっている。浅羽はちんもくに耐えきれなくなり、何か言わなければと思って、


「名前は?」


 女の子が答える。


「いりや」


 何を言っても外国語のようにひびく、少し不器用な感じの、不思議な声だった。


「──それ、名前? みよう?」


 ひと呼吸おいて、女の子はこう答えた。


「いりや、かな」

』かもしれない、と思った。そういう地名がそのはら市の中にあるから。

 女の子は浅羽の次の言葉をじっと待っている。

 何か言わなければ、と浅羽は思う。


「──泳げないの?」


 言ってしまってから、もうちょっと実のあることを聞けないのかバカめ、と自分でも思う。泳げないに決まっている、さっきおぼれているところを助けたばかりではないか。

 目を合わせないようにしているあさの視界の中で、女の子がこくっとうなずいた。

 何か言わなければ、と浅羽は思う。

 思うのだが、切れ端のような言葉でしかしやべらない女の子に引きずられているのか、頭の中で渦巻く疑問をちゃんと意味の通る「質問」にすることができない。疑問を生のままで口にすれば「君はだれ?」というひと言だけになってしまう。この女の子がそれに明快な答えを返してくれるとは思えない。ちんもくは続き、きんちようはいや増し、何か言わなければと焦れば焦るほど、「じゃあぼくは帰るから」以外には何の言葉も思い浮かばない。


「およげる?」


 いきなり、女の子がそう尋ねた。

 あなたは泳げるのか、と質問しているのだ。そのことを理解するまでに少しかかった。

 そして、そのひと言が突破口になった。


「──あのさ、もしよかったら、」


 この子は泳げない。そして、得意中の得意というわけでもないけれど、自分は泳げる。

 その点において自分は、多少なりともいいところを見せられる。


「教えてあげるよ、泳ぎかた」


 浅羽はそう言った。

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