第三種接近遭遇 ④

 言ってしまってから、自分の提案に自分でためらいを覚える。この女の子はさっき鼻血を出した。バッグには得体の知れない薬がどっさり入っていた。本人がどう思っているのかはわからないが、そもそもこの子がプールで泳ぐなどという事自体が無理な話なのではないか。

 ところが、女の子はこくっとうなずいて、ほんの少しだけうれしそうな顔をした。

 その顔を見ただけで、浅羽はあっけなく勢いづいた。


「ちょっと待ってて」


 ビート板を取ってこようと思って、小走りに用具置き場へとむかう。気配を感じてふと振り返ると、待っていろと言ったのに、女の子は小犬のように浅羽の後をついてきていた。ビート板の山をひっくり返して、できるだけきれいでぬるぬるしていないやつを探している間もずっと、女の子の視線に背中がむずむずしていた。

 思う。

 ひょっとすると、この子は泳げないというよりも、生まれてから今日まで一度も泳いだことがなかったのかもしれない。

 それでも、どうしても泳いでみたくて、一大決心をしてやって来たのかもしれない。

 きっとそうだ、と浅羽は根拠もなく思う。

 病気なのかと浅羽は尋ね、女の子は首を振った。しかし、いわゆる病気ではないにせよ、あれだけの薬を持ち歩いているのはやはり普通ではないのだろう。

 例えば、生まれつき身体からだが弱い、とか。

 長いこと患っていた大きな病気が最近やっと治ったばかり、とか。

 きっとそうだ、とあさは思った。この子はずっと昔から病院を出たり入ったりの生活をしていて、学校も休みがちで、それこそ体育の授業なんかはずっと見学で、プールの授業では泳いでいる友達の姿をただ見ているだけで、それでも泳ぐということにすごくあこがれていて、最近になってやっと身体の具合がよくなってきたのでお母さんに「プールに行ってもいい?」と尋ねてみても「なにバカなこと言ってるのこの子はだめに決まってるでしょあらこんな時間もう薬は飲んだの?」かなんか言われて、それでもあきらめきれなくて、こっそり家を抜け出して夜のプールにやって来たのだ絶対そうだ、と浅羽は思った。

 そう考えれば、何となく線が細い感じがすることも、プールを見つめていたときの思いつめたような雰囲気も、くそに水泳帽をかぶっていることも、いきなりの鼻血も大量の薬も、ぜんぶ説明がつくような気がした。

 ビート板を二枚手に取ってプールに戻り、ざぶんと足から飛び込んだ。女の子はプールのふちで少しためらって、浅羽と同じように足から飛び込む。まるで、浅羽のやることを何から何までそっくりそのまましようとしているかのように見える。

 ビート板を女の子に手渡して、


「これにつかまってればおぼれたりしないから」


 そこでふと気になって、


「──あのさ、水に顔つけられる?」


 女の子は、恐々と首を振る。


 というわけで、まずはそこから始めなければならなかった。

 一番時間がかかったのもそこだった。励ましてもなだめても、女の子はなかなか顔を水につけることができなかった。ところが、ずいぶんかかってようやく頭全部を水の中に入れることができるようになると、そこから先は早かった。プールの縁につかまって身体を伸ばす練習をして、バタ足の練習をして息継ぎの練習をして、いよいよビート板を使った練習に移った。

 そして、中学二年の夏休み最後の日の午後九時を、十分ほど過ぎた。

 そして、そのころにはもう女の子は、ビート板につかまってなら15メートルを泳げるようになっていた。バタ足のひざが曲がっているので盛大な水しぶきが上がる割にはずいぶんなノロノロ運転だし、放っておくとどんどん右に曲がっていく。とはいえ、まったくのカナヅチからのスタートだったことを思えば長足の進歩だ。もともと運動神経がいいのかもしれない。

 教える方の浅羽も最初はおっかなびっくりで、女の子がまた鼻血を出したらそこですぐにやめにしようと思っていた。が、女の子の上達の早さにどんどん欲が出てきた。女の子は相変わらずもくで、あさの言葉にもうなずいたり首を振ったりするだけだったが、何かひとつのことができるようになるたびに表情が少しずつ明るくなった。


「すごいよ。この調子でいけば来週には水泳部のエースだ」


 女の子は、少しだけうれしそうな顔をした。ここ一時間ほどの間に、浅羽はこの「少しだけ」の微妙な差をどうにか読み取れるようになっていた。今のこの顔は、これまでで一番嬉しそうな顔だ。


「じゃあ、そろそろビート板を卒業だ」


 途端に女の子の表情が固くなる。


「大丈夫だって、もうひとりで泳げるって。もうビート板なんかあってもなくても一緒だよ」


 女の子はこくっとうなずく。が、それは言われたことに納得しているわけではなくて、浅羽を失望させたくない一心からのものであるようにも見える。


「あ、あのさ、」


 浅羽はあっという間に妥協して、


「それじゃまずは、ぼくが手をつかまえてるからさ。それなら平気でしょ?」


 浅羽はそう言って両手を差し出した。

 今度は女の子も納得したのか、少しだけ安心したような表情を見せた。自分から両手を伸ばして浅羽の手首をつかむ。浅羽の手は、女の子の手首をつかむ形になった。

 そして、浅羽はやっと「それ」に気づいた。


 そのしゆんかんに女の子も、浅羽が気づいたことに気づいてぎくりと身を固くした。たった今まで、自分の手首に「それ」があることを、女の子は自分でも忘れていたのかもしれない。

 浅羽は指先で、女の子の手首を探る。

 何か、硬くて丸いものがある。

 ゆっくりと、手首を裏返してみた。

 卵の黄身ほどの大きさの、銀色の金属の球体が、女の子の手首に埋め込まれていた。

 女の子がじっと見つめてくる。

 水の動きに身体からだが揺られている。

 現実が水に揺られて、再び遠のいていく。


「痛くないから」


 そう言って、手首の金属球が浅羽によく見えるように両手を差し伸べて、女の子が近づいてくる。

 生の疑問。何をおいてもまず最初に聞いておくべきだったこと。

 君は、だれ


「なんでもないから」


 優位は逆転していた。今、おそれるなと言い聞かせているのは女の子の方だった。あさは後ずさりしようとするが、ひたむきなその目にじっと見すえられ、外国語のようなひびきをもつその口調にじゆばくされている。後ずさりの最初の一歩がどうしても踏み出せない。


「なめてみる?」


 女の子はもう、目の前にいた。

 女の子と浅羽の顔の間には、もう、銀色の球体が埋まった手首があるだけだった。


「電気の味がするよ」


 だれもいないはずの夜の学校が、誰もいないはずの夜のプールが、星の光が、見知らぬ女の子が、何もかもが、現実の出来事とは思えない。


 いきなり、パトカーのサイレンが聞こえた。


 おどろきのあまり、浅羽の口から情けない悲鳴がもれた。

 本当にすぐ近くから聞こえた。学校の中か、あるいは外だとしてもグランドの周囲をめぐっている通りのどこか。体育館の窓に点滅するパトライトの照り返しが見える。一台や二台ではない。

 女の子は無言だった。

 表情の動きもあるにはあったが、浅羽の目には、自分の十分の一も驚いているようには見えなかった。そのことが浅羽のパニックをさらにあおる。とにかく自分が何とかしなくてはならないのだ。何が何だかわからないままに、浅羽は女の子の手を引いて無我夢中でプールから上がろうとした。

 そして、浅羽がプールのふちに行き着くよりも早く、その男は現れた。

 更衣室のスイングドアから、ゆっくりとプールサイドを歩いてくる。

 背の高い、ねんれいのよくわからない男だった。

 スーツの上着を肩に引っかけて、もう片方の手にはバスタオルを持っていた。ネクタイはしていない。顔つきは若くて、タレ目で、いつも下品な冗談を言ってはひとりで大笑いしていそうな感じがする。しかし、何かにひどく疲れたような、すり切れたような雰囲気がどこかに漂っていた。


「帰る時間だ」


 立ち止まり、プールサイドから女の子をまっすぐに見つめて、男はそう言った。

 現実は、女の子の鼻血と一緒に、プールの排水口に流れ込んで消えてしまったのだと思う。

 何が何だかわからないし、混乱していたし、怖くないといえばうそもいいところだ。しかし、浅羽は虚勢を張った。一歩前に出て、女の子を背後にかばう位置に立った。

 男はそれを見て、思いがけないものを見て感心したかのような、おっ、という顔をする。

 女の子が背後からささやく、


「だいじょうぶ、知ってるひと」

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