あれは夢だった、そう考えた方が安心できるのだ。
わけのわからない出来事が自分の身に起こったのだと思うよりも、はるかに。
しかし、その安心に安住しようとしないもうひとりの自分がいる。
──この腰抜け野郎が。いい加減に目を覚ませ。
もうひとりの自分はそう叫ぶ。
──心身の疲労にストレスか。なるほどな。それなら何が見えても何が聞こえてもしょうがねえってか。まったく何でもござれの便利な説明だよな。近代合理主義ってやつが一家に一台必ず備えている怪力乱神のごみ箱だ。それで何かを説明したつもりか。いいかよく聞け、お前はな、記憶の一部がなくなっちまったことの恐怖に負けて、ただ単にすべてをなかったことにしようとしているだけだ。心配するほどのことは何もなかった、そう思いたいがために、客観性や再現性のあるなしで言えば占いや民間療法と五十歩百歩の「シンリ学的なセツメイ」を持ち出して、自家製の日常を再構築しようとしているだけなんだよ。
それこそが奴らの狙いだ。
その手に乗るな。
あれは夢だった、そう思ったらお前の負けだ。
口元が苦笑に歪む。どうかしている。「奴ら」って一体どこの誰だ。いつから「勝ち負け」の話になったのか。まるで超常現象狂信者の言い草だと自分でも思う。
しかし──
それでもなお、黒い水面を渡って跳ね返ったレーダー波のような波紋が、くそ真面目にかぶっていた水泳帽が、バスタオルに染み込んだ鼻血の赤が、何を言っても外国語のように響く不思議な声が、ビート板で15メートル泳げたときの少しだけ嬉しそうな笑顔が、鼻がくっつきそうな至近距離からのぞき込んできた黒い瞳と手首に輝いていた銀色の球体が、そのすべてが夢だったとはどうしても思えない。
理性がいくら否定しようとも、感情は納得しなかった。
あの女の子は、一体誰だったのか。
それを知りたかった。
それを知ってどうするのか、自分はもう一度あの女の子に会いたいと思っているのかいないのか、そんなことすらもわからなかった。
しかし、それでもなお、「いりや」は本当にいたのだと信じたかった。
「きりーつ」
教室の入り口の滑りの悪い引き戸が、耳障りな音を立てた。
ふと気がつけば、級長のフライング気味の号令でクラス全員が起立して礼をしていた。座っているのは浅羽だけで、慌てて立ち上がろうとしたときにはもうみんな座っていた。数学の飯塚が、たったいま墓から這い出てきたのかと思わせるヨボヨボの足取りで「よっこらしょ」と教壇に上がる。教卓に教科書を投げ出すように置き、死にかけのミイラがもし口をきいたらこうであろうと思われるような声で、
「あ~~~」
と言った。ついにお迎えがきたのではない。授業の続きがどこからだったかを思い出そうとしているのだ。そして、いつもなら「あ~~~、では」と続くはずのその声が途中でいきなりぴたっと止まった。遠慮がちなノックの音はクラスの廊下側の半分くらいにしか聞こえなかったはずで、残りの半分は「死んだ」と思ったに違いない。
扉が細く開き、クラス担任の河口泰蔵三十五歳独身の顔がのぞいた。
「飯塚先生、ちょっとよろしいですか」
飯塚は「ああ」と「おお」の中間くらいの声を出した。
浅羽は小さくため息をついた。新聞部員として衝突することが多いからなのか、それ以前に生まれつきそりが合わないのか、自分のクラス担任の河口という男を浅羽はどうしても好きになれない。河口の顔を見ているのがいやで、浅羽はすぐ左にある開け放した窓の外へと視線を逃がした。二階の窓から見下ろす園原中学校校舎正門側の光景。特に面白いものがあるわけでもない。校舎と同じくらいに歳老いた桜の木の列と、左翼っぽい校是が刻まれている石碑と、右翼っぽい校歌が刻まれている石碑と、校舎の正面入り口の屋根を塗り潰している古びたペンキの緑。背景のノイズとして埋もれていたセミの声が意識の上層に昇ってくる。夏の日射しはどこにも影を作らず、砂利の敷きつめられた駐車スペースはガラガラで、どこかで見た憶えのある白いバンだけが陽炎をまとい、
身体が凍りついた。
あの男がいた。
白いバンの隣に、あの男が立っていた。
プールサイドに現れて、用務員のカミナリおやじの話をした、若いくせに老人のように擦り切れた雰囲気を隠し持っていた、あの男だった。
男はゆうべと似たようなスーツを着て、昨夜のように上着を肩にかけて、昨夜はしていなかったネクタイをしていた。額に手をかざして校舎を見上げている。そして男はすぐに浅羽に気づき、「思いがけない奴に会った」という顔をして、ゆうべのように顔中で笑って、右から左へ一度だけ手を振ってよこした。
河口が喋っている。
その声が自動的に耳に流れ込んでくる。
「あー、事情があってホームルームには間に合わなかったが、飯塚先生のこの時間を少々お借りして、」
セミの声が次第に大きくなる。
予感、などという生やさしいものではなかった。
浅羽はゆっくりと、
ゆっくりと、
ゆっくりと、
教室の中を振り返った。
伊里野 加奈
きれいな字で、黒板にはそう書いてあった。
あの女の子が、教壇に立っていた。いかにも真新しい夏服を着て、まるで一年生のようにぴかぴかの鞄を手に下げて、まだ一度も下駄箱に入ったことのない上履きをはいて、両の手首にリストバンドをつけて。
セミの声がどんどん大きくなる。
河口が何か言っている。転校生を紹介する、河口の口元がそう動いている。しかし、その言葉はもう浅羽には聞こえていない。教室中のざわめきも聞こえてはいない。そのくせ、女の子の声は、生まれて初めて口にする単語だけで喋っているようなあの不器用な声だけは、はっきりと聞こえた。
「伊里野、加奈です」
偽名に決まっている、と心のどこかで思った。
頭の中にセミがいる。
女の子は名乗り、何度も練習してどうにかここまでになった、という感じのお辞儀をする。
そして、窓際の席で身動きもままならない浅羽を、じっと見つめる。
考えてみれば当たり前だ、と浅羽は思う。
夏休みが終わると同時に、夏が終わるわけではないのだ。
夏は、あとしばらくは続くのだ。
UFOの夏だった。