としれじぇ ジャンル《都市伝説》 ⑩

 斧を投げ捨てれば良かったのだが、彼はぼうにも『追いつかれたらこれで戦ってやる!』という思いすら浮かんでいた。

 よって斧を捨てる事もできずに、彼は夕暮れの中をいちもくさんに逃げ出したのだ。


「待てコラァッッッ! 行ったぁ!」


 ごうが聞こえる。

 後ろを振り返ると──顔から血をドクドクと流した血まみれの男が、抜き身の日本刀を持ってこちらの姿を探している。

 血でかいが悪くなっているのか、まだこちらには気付いていないようだ。

 ──助かった。

 そう思ったのもつか──

 靴をいたかくりの仲間達が、自分の姿を見つけていつせいにこちらを追いかけて来たのだ。



ちくしよう……どこだ……」


 血まみれになった角刈りの男は、日本刀を手にぶら下げながら日の暮れかけた町を歩く。

 幸いな事に通りに人は無く、彼の事をもくげきしたのは──

 窓から外のようのぞいていた、となりの青い屋根のアパートに住む少年──、ただ一人だけだった。



 あれからどれぐらいっただろう。

 僕はどれぐらい逃げ続けたんだろう。

 だけど、だった。

 気が付いたら、僕はまた見覚えのある辿たどり着いてしまい、赤と青の屋根に挟まれるように立ちすくむとなった。

 もう、走れない。

 走る気力はある。

 それなのに、足が言う事を聞いてくれない。

 生きたい。どんなみにくくてもいいから、今はただ自分におそい掛かる恐怖から逃げ出したい。

 彼はどこかにかくれねばならないと、アパートの敷地に向けて最後の力を振りしばる。

 赤い屋根のアパートに戻る気にはなれない。彼はそくに青い屋根のアパートの敷地ないに入り込むと、建物の裏側にあるプロパンガスの横に身を隠した。

 まさかやつらもこんな近くに戻ってきているとは思うまい。

 そう考えながら、彼はあんのため息をつこうとしたのだが──

 道路の方から聞こえて来た会話が、彼を恐怖の世界へと引き戻す。


「いたか!?」

「いや、こっちに戻って来たのは間違いねえみてえだが……」


 ──どうして!? どうしてここが!?


「見ろ、やっぱりこのあたりだ!」

「あのろう、どっかにしてたみてえだな」


 その会話を聞いて、少年は思い出す。

 彼は先刻、自分の足をおので切りつけていたという事を。

 同時に、彼は自分の足がげきつううずいている事に気が付いた。

 足が言う事を聞かないのもは無い。この傷で今まで逃げ続けられたのがせきだと思えるほどだ。

 だが、その奇跡ももう終わったようだ。

 自分のけつこんを頼りに追われていたのではどうしようもない。


 ──嫌だよ。死にたくないよ。


 子供がダダをこねるように、彼は夜空を見上げながら何度も何度もつぶやいた。

 ──死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……

 誰でもいい、神でもあくでも構わない、誰でもいいから助けて欲しい。

 そんな事を思いながら、気が付くと少年はいじめられた子供のように涙を流していた。

 誰でもいい、誰か助けを──助けを呼ばなくては──

 彼がすがるべき何かを探して、周囲を見回したその瞬間──自分が寄りかかっているアパートの窓の一つから、青白い光があがっているのが見えた。

 まるで、部屋の中で青いほのおが燃え盛っているような────

 彼がその正体について考えるひまも無く、今度は道路の方からかくりの声が聞こえてきた。


「……いたか」

「あ、あに! 大丈夫っすか!」

「俺はいい。それよりもあいつはだ」


 冷静な調ちようだったが、その声には怒りを通り越した冷たいさつが込められている。その声を聞いただけで少年の全身は縮み上がり、同時に理解する。

 おので応戦したところで、あの男には絶対に殺されてしまうであろうと。


「どうも、この辺にかくれてるらしいっすね」

「……探せ」


 ──もうしまいだ。

 彼が恐怖に押しつぶされそうになった、そのせつ──


 ぐぉおぉあぁおおあぁおあゎあぁおあぁおあ


 どこからともなく、周囲に人間とけものをあわせたようなぜつきようひびき渡った。


「なんだ……?」


 ほうもの達もその絶叫に気が付いたようで、道路に足を止めて周囲のよううかがっている。

 それから更に数秒後──


 ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁ


 再び、苦しみを訴えるようなほうこうが周囲を支配したかと思うと、アパートの扉の一つから、激しい破壊音がひびき渡った。


 そして──アパートの敷地の入口へと逃げるように、体の所々に火をくすぶらせる、


「がぁぁぁああぁぁッ!」


 斧を持ったその男──殺人は、じや者を排除するかのように、入口に立っていた無法者達におのを振り上げた。

 だが、その斧が振り下ろされる直前、かくりの男が一歩前に踏み出し、男の斧をかいくぐりながら、手にした日本刀をいつせんさせた。

 がいとうの下で銀色が輝き、男の右足をふかぶかと切り裂いた。


「がヵぁあああぁあッ!?」


 殺人がバランスを崩した瞬間、角刈りは日本刀をくるりと返し、斧男の肩口にさきを突き立て、そのまま男をアスファルトの上へと切り倒した。


 ギャアァァアァァァァァアアァァァァァぁアアァァァァァアアアァああぁぁっぁぁぁあああぁぁぁぁっぁアァァア


 夜のやみを切り裂くように、斧を持った殺人鬼の悲鳴が周囲にひびき渡る。

 それを聞いていたは、プロパンガスの影から、そのようをまるであくのように見守り続けていた。

 いつまでも、いつまでも──



 あとはひどいものだった。

 倒れた斧男を五~六人がかりでいつせいふくろだたきにする。誰もすんめせずに、ときおり骨の折れるような鈍い音が少年の耳にまで届いてきた。

 ひとしきりのリンチが終わると、角刈りの男が無表情のまま腰をかがめ、もののようにれあがった殺人鬼の顔に声をかける。


「てめぇ……さっきから俺のベッドの下にかくれてたって事はよ……俺らの話も全部聞いてたって事だよなぁ? ええ? 殺人鬼さんよぉ」


 既に虫の息になっている男に対し、角刈りの男は感情を抑え込んだ目で語りかける。


。……それまで死ぬんじゃぁねえぞ、このうじむしろう……」


 その言葉に続けるように、スキンヘッドがけいな一言まで付け加えた。


あに、こいつ多分、兄貴の妹の事も聞いてますよ」

「……そうか、じゃあ……死んだ方がマシな目の一番最初は──舌を引っこ抜くところから始めねえとな……」


 それだけつぶやくと、かくりはスックと立ち上がり、自分の顔から流れる血もぬぐわずにきびすを返し、『さらえ』と、一言だけ仲間達に告げる。

 残された男達はその言葉に無言でうなずくと、そのまま殺人を抱えてどこかへと連れ去ってしまった。

 後に残されたのは、いつわりのおのおとこと──アパートの入口に残された、巨大なまりのみであった。



 夢だったのだろうか。

 僕は静かに、今しがたの出来事を考える。

 いや、やっぱり夢じゃない。僕の足はいまだに痛みにうずいているし、いくら待っても現実に戻る気配がない。

 ということは、今の異常な光景の方が全部偽りだったという事だ。

 これからどうすればいいんだろう。

 どうすれば、僕は日常に戻れるんだろう。

 そんな事を考えていると──僕の耳に、どこかで聞いたような声が聞こえてきた。

 ガスボンベの陰からそっとのぞくと──そこには何と、あかがみの姿があるではないか。

 なんてこった。

 こんな状況になってようやく巡り合えるなんて。

 だけど、僕にはもう彼らを殺す気力は無い。

 生きている。

 今、こうして生きている。

 それだけで十分だ。僕の人生は満たされた。

 ああ、なんていう充実感なんだろう。

 僕がそんな事を考えている間にも──あのいまいましい二人は会話を続けている。


「ルル、さっきの質問だけどさ……」

「え……?」

「俺、ルルの事が好きだよ。ああ、好きだ」

「ムー……」


 なんだよ。血溜まりを前にしてのろかよ。

 どうなってるんだこいつら。


「今日みたいな事があってわかったんだ、俺、やっぱりルルの事が好きだ……えっと、これって、告白になんのかな、やっぱり」


 もっと気の利いた事を言えよ。せっかく星空の下なんだからよ。


「ありがとう……ムー……ごめんね」


 どっちだよ。


「私も──ムーの事、好きだよ」


 後は二人で抱き合うだけだった。

 ああ、くだらない。やっぱり想像通りにくだらない二人だ。せっかくの非日常なんだからよ、もっと気の利いた事は言えないのかね。

 僕はそう思いながらも、どこかホッとしてた。

 そうか、二人はこれでちゃんとした恋人同士になったのか。

 ってことは、僕はちゃんとした理由でフられたって事になる。今日のせつは、無かった事になる。

 そういう事にしよう。僕の中でそういう事にしよう。

 明日からまた人生をやりなおそう。

 今日を生き抜けたんだ。たいていの事はくいくさ。

 そうだな、明日から新しい人生を歩むにあたって、まずは──

 このおの、どうしようか。

 腹が立つぐらいにれいな星空をながめながら、僕はぼんやりと、そんなくだらない事ばかりを考えていた。


 斧の鈍いきらめきが、僕を優しく笑った気がした。



『としれじぇ』──完

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