「すべては順調に進んでいるとも! 305号室に巣くっていた想念体は、ほれこの通り、我々の尽力により叩き出した! 後はとっとと撲滅するのみだ! 安心して大船に乗っておいてくれたまえ!」
そう叫んでいるのは、この学園内で妖怪退治みたいなことをしている顔見知りの二年生、宮野だ。いつ見ても制服の上から白衣を着込み、瘦せた仏像みたいな顔に会心の笑みを張りつけている。今もそうだった。僕は宮野のツラをしばらく見つめ、それからふよふよと滞空する物体に視線を移した。
「これのどこが順調なのさ。完全に実体化してるじゃないか。しかもあの廊下に転がっているドアは何だよ? 爆発物でも使用したのか? 誰が修理すると思っているのだ。僕がするつもりもないが修理しろと誰かに言わなくてはならないのは僕なんだぞ」
「そうか、キミには思いっきり兄思いの妹君が憑いているのだったな。そうだった。うむ、つまり、」
話を聞いていないらしい。
僕は、びっしりと生えたトゲの先から紫色の火花をバチバチ上げ始めた物体に目を据えたまましみじみと言った。
「さっさとどうにかしてくれよ」
「本来なら憩いのひとときとなるはずの夕食後の時間帯、一日で最も貴重かもしれないこの時間にお騒がせしてしまい、申しわけございません」
今学期から宮野とよく組んで学園中を走り回っている一年女子、頭から足先まで黒ずくめの少女が優雅に腰を折った。艶やかな長い黒髪が上半身の後を追ってハラリとなびく。
葬式帰りのような格好の光明寺茉衣子は、明瞭な声でのたまった。
「何から何まで班長の責任です。わたくしは与えられた役割をしっかりとこなしておりましたわ。すべてはこのイカレ頭が悪いのです。わたくしが完璧な手際でその邪念の塊を部屋から追い立てましたのに、このトサカ頭ときたら満足に捕獲もできないんですの。それどころかワザと逃がして状況を悪化させているフシすらありますわ。まあ、なんてヤツでしょう。バカじゃないかと思いますわね。いえ、はっきり言いましょう、バカです。なぜそんなバカの代わりにわたくしが謝罪せねばならないのか、つくづくこの世の不条理を実感しますわ。ええ、まったくもって不条理です。と言うわけでさっきのお詫びの言葉は撤回させていただきます」
「何を言うとるのかね茉衣子くん。キミの言うイカレ頭が誰を指すのかは知らんが、大した被害も出さないうちに消滅させてしまうのも不憫であろうが? 第一、それでは私がちっとも面白くない。ここは一つ、派手にバーンと」
「ああアホくさい。なんでまたこんなのを我が対魔班の班長として戴かねばならないのか、わたくし疑問でなりません。高崎さま、いかが思われます?」
黒い影のような浮遊物体が滲むように震動し、前触れもなく再び僕に向かってきた。
僕が避けるより先に、そいつは先ほどと同様、激突の寸前で虹色の火花を散らせて元の位置へ弾かれる。
僕に半ば重なるように春奈の小柄な身体が浮かび上がり、
《だーめ》
僕への攻撃はすべて春奈が張り巡らせた不可視障壁が無効化してくれる。春奈のEMP能力はこの学園でも最強レベルだった。
「いかがも何もないね」と僕。「いいから、早く片づけてくれよ、頼むからさ」
「茉衣子くん、私は哀しいぞ。初めて対魔班に配属されてきたとき初々しく頰を染めながらよろしくご指導お願いしますと頭を下げたあの茉衣子くんはどこに行ったのかね。うむ? ひょっとしたらキミは偽物だな? おのれ偽物、あの頃の純粋な茉衣子くんを返したまえ!」
「過去のわたくしはしょせん過去、過去の集積物たる現在こそが真実のわたくしなのです。それに安易に下の名で呼ばないでください。馴れ馴れしい」
「最初にキミが言ったのだぞ。名字より気に入ってるのでこちらの名で呼んで欲しいとな!」
「撤回させていただきます。今すぐ撤回します。ええ、撤回しました、たった今」
「では光明寺くん」
素直に宮野は応じた。
「前から言おうと思ってその都度忘れていたのだが、キミには目上の人間に対する尊崇の念というものはないのかね」
「ここは笑うとこですの? 誰が誰を尊崇するですって? わたくし、堪え切れませんわ。失礼して、笑わせていただきます」
ほほほ、と口元を手で覆って茉衣子は軽やかに笑い声を上げる。
これだけ騒いでいるのに僕以外の誰一人として戸を開けて状況を確認しようとしない。賢明だ。出てきたら確実に巻き込まれる。
「ううむ、そう言えばキミは《妖撃部》だったな。私の《黒夢団》とは不俱戴天の仇敵だ。相互理解の不全には互いに所属する組織的思想の違いが根底に横たわっているのかもしれん。あんな胡乱な部活からは即刻脱退し私の団に加わりたまえ。今なら私が手ずから秘儀参入の儀式を施してやるというサービス付きだぞ」
「お断り申し上げます。大天使召喚に失敗して校庭に全長二十メートルの塩の塊を落っことすようなインチキ魔術結社などに、誰が入るというのです?」
「なんなら私の書いた畢生の大作『偉大なるヘルメス魔術の奇蹟と軌跡』全三巻を特典として付けてもいいのだが」
「漬け物石代わりにならもらって差し上げてもよいですわ」
睨み合う二人を眺めて僕は首を振った。
「だいたいそうだろうと思ってたけど、あのでかい岩塩の原因はそれか。あれはあれで邪魔だから何とかして欲しいね。こいつを片づけてから」
「お間違えなく高崎さま。わたくしは班長が個人的に主宰する邪悪な黒魔術師集団などに属してなど決しておりませんので。責任のベクトルの先が全部このトンチキ頭の方を向いていることをどうかご理解くださいませ」
「解ったよ」
僕はうなずいた。宮野がアホであることは周知の事実だ。
「では」と茉衣子は肘で宮野の脇腹を突いた。宮野はいかにも残念そうかつ大儀そうに両手を広げ、
「あー、祓魔の方法だが、何がいいと思うかね。ラテン語の呪句を長々と唱えつつ退去を祈願するか、それとも古代ヘブライ語を用いて六芒魔法陣を形成するか、私個人の趣味としてはだな」
「十秒で終わらせてくれ。余計な演出は入れなくていい」
宮野は何やら不平不満を呟きながら廊下の床、ウニの化け物が落とす影のあたりを凝視した。
スズメバチの羽音のような耳障りな効果音が聞こえたかと思った次の瞬間、宮野の視線の先に暗い光としか形容しようのないブラックライトが発生して床を這う。宙で揺れる妖物の影を吞み込むように、光とも闇ともつかない描線が通路に完全な円を捺印した。
宮野の目がいそがしく動き、動くたびに円の内部に奇怪な記号と二つの同心円、そして五芒星が生み出される。
巨ウニが何かを察知したように身じろぎした刹那、魔法円から闇を凝らせたような幾条もの鎖が出現し、たちまちに絡め取った。
「説明しよう。その暗黒の鎖は冥界においてケルベロスを繫ぎ止めているということになっている地獄製の鉄鎖なのだ。本当はそんなものは無いのかもしれないが私がそう決めたのだ。妄念が結実した貴様の縛となるにはいささか勿体ないものを呼び出したかもしれぬが、いや何、お釣りを請求する気はないので気にせんでもよい」