序章 閉じた世界 ②

 王都チオウと自分の住む家を最短で移動するには砂漠を渡る必要がある。フウは危険を承知で「運び屋」に依頼して砂漠を車で渡る決心をした。が、砂漠を渡る「運び屋」とその哀れな顧客はフウを残して死んだ。フウの足元にはどうもうな肉食砂獣が、地表に神経をとがらせている。フウの背後五百メートルには動力装置が停止して立ち往生したトラックが一台、空っ風にさらされていた。フウの眼前、すなわち南にはごつごつとした岩場の風景が遠く揺れていた。フウは風に耐えながら夜を待つしかなかった。

 フウの母は「砂漠には竜がいて危ないから絶対に入っては駄目」とよく言っていた。竜はいなかったが、危険であることは確かだった。それでも、フウはその危険を承知で運び屋に同行したのだが。

 夜まで自分は生きていられるだろうか。フウの足元からはチアゲハが地中を進む音が聞こえていた。

 フウは死を覚悟する。いや、覚悟、というのはおかしいかもしれない。それは確信だ。自分はもう助からないという確固たる思いがフウの脳内に浸潤していく。

 だが、後悔はない。こうするしかないと、フウは本気で信じていた。これが、母を助ける最良の選択であり、自分は賭けに負けただけなのだと。

 ──ごめん。

 フウはポケットの中の薬の入ったプラスチック容器を握りしめる。

 フウのすぐ側には、少年に切り裂かれてひんとなったチアゲハが横たわっている。不思議と、自分のかたわらで死を待つチアゲハに妙な共感を覚えるフウだった。


「ウゥー」


 どこからともなく鳴き声のようなものが聞こえた。それは風の高鳴りに思えた。だが違う。鳴き声に遅れて、軽快な足音が聞こえてくる。一つじゃない。連なるその足音は群れを連想させる。フウは眼球を右に動かし、地平の彼方かなたから迫りくる無数の影を見た。

 ──竜。

 思わず声が出そうになった。体高一メートルはあろうかという巨大な蜥蜴とかげの群れだ。乾燥したうろこと、広い顎。そして背中やくちから伸びた無数のトゲ。

 大蜥蜴とかげの群れは軽快に、そして素早く、風のように地表を駆けた。フウに百メートルほど近づくと、連中の走った後から次々にチアゲハが飛び出した。一匹がチアゲハに食われたものの、大蜥蜴とかげの群れはひんのチアゲハに辿たどいた。すると、その広い口を開いてチアゲハにらいつく。チアゲハはのたうつ程の抵抗すら見せず、赤黒い血をまき散らして大蜥蜴とかげの胃袋の中に収まっていった。

 チアゲハの肉を半分ほど食い散らかした大蜥蜴とかげは、再び西の方角に走り去っていく。

 竜はいたのか。この死地にあって妙な感動がフウの胸に生まれた。

 死ぬぎわに面白いものが見られた。

 いや、

 待て。

 冷静になると、ある疑問がフウの胸に浮かんだ。

 ──、大蜥蜴とかげはチアゲハに食われなかったのだ。

 あの大蜥蜴とかげはこちらに向かってくるとき、チアゲハに捕食された。だけど、チアゲハの死肉を食べてる間と引き返す時は、チアゲハに襲われなかった。食べてる時なんかあんなに無防備だったのに……

 そう言えば、地上に飛び出たチアゲハは他のチアゲハに襲われていない。ひんのチアゲハも同じだ。もし、振動だけに反応しているならやつらは共食いを始めているはずだ。

 つまり、振動で相手の位置を、臭いで地表の生物を識別しているのか。筋は通っている。どこにも矛盾は生じてない。フウは食い散らかされたチアゲハの肉片に目をやった。フウのいる位置からは五メートルほど離れている。

 ──いけるか? いや、やるしかない。

 フウは躊躇ためらいを振り払い、勇気を出して走った。直後、地面が大きくうなって地表が砕かれ、チアゲハが飛び出した。フウは迫りくるチアゲハを背中に感じつつも全力でチアゲハの死体に走り寄り、黒い血の海に飛び込んだ。顔と衣服に粘ついた血がこびりつき、ふん尿にようを煮詰めたような悪臭が鼻の奥まで突き刺さる。

 猛烈な吐き気に顔をしかめながらもフウは後ろを振り返る。チアゲハに自身と同じ臭いを纏ったフウを襲う素振りはない。チアゲハはしばらくして地面の中に潜っていった。

 フウの「仮説」は正しかった。フウは自分の仮説を、命を懸けて実証したのである。

 これが生まれて初めての科学的な思考だった。


 地平を南に下ると、地盤が硬くなり、岩石や石ころが地表に現れる。

 その先に「第五管轄区」があった。土を固めて作ったピラミッド型の建物が点在し、地区の中央にコンクリート製の大きな建物がある。この建物の一群を雑な有刺鉄線のバリケードが囲っていた。ここに六〇〇の人間が、女々しく生と大地にしがみついている。

 フウの家は集落のはずれにある。同じピラミッド型の建物で、鉄のかまちで作られた入口には布がかかっている。フウは勢いよく布を開けた。そこには木製の小さなテーブルと、紙をしまう小さな戸棚と筆記用具、そして誰もいないベッドが二つある。フウはベッドの一つに走り寄る。

 ──母がいない。

 意味が分からなかった。ここには病気で寝ている母がいたはずだ。

 その時背後に誰かの気配があって振り返る。初老の男が立っていた。


「ようやく帰ったか」


 男は血みどろのフウを見て顔をしかめ、袖口を鼻に当てた。

 男が何か罵声を放つ前に「母はどこか」と、フウは聞いた。


「昼に近隣住民から異臭がするとのしらせがあってね。死んでいるのが確認されたよ」


 死んだ? 誰が? 母? お母さんが? 死んだ?


「さっき火葬が終わって共同墓地に埋葬された。灰の回収はもう少し先になる。明日から補助金の発行は一人分になるからな」


 うそだ。お母さんが死ぬはずがない。体調が悪くても、ずっと笑顔で自分を出迎えてくれた母親が。死ぬわけがない。


「ちなみに死因は脱水症だ」


 だ、脱水?


「人間の身体からだは水と塩でできているって知らねえのか。そいつが無いとどんなにいもんを食ってても死んじまうんだ。まったく、愚かな娘だ」


 塩と水? 自分が命を懸けて運んだ薬は? 必要なかったというのか? 、誰もそれを教えてくれなかった。

 フウは魂の抜け殻になって、たよりのない足取りで共同墓地に向かった。だがそこに母はいない。大きな穴に白骨や炭が密集しているだけだ。フウは穴のふちで一時間ほど立ち尽くす。

 乾いた風がフウの肌をでていく。フウは濃紺の空を見上げた。星は空気も読まずに輝いている。


 ──寒い夜とたわむれ しやくねつと踊れ


 それは母親が好んでよく歌っていた歌だ。母親もどこで聞いたのか覚えてなくて、作曲者は分からない。歌詞は曖昧で、所々に鼻歌が混じった。歌の最後も分からない。

 ──手を伸ばして 感じろ

 そのメロディをフウは小さく口ずさむ。

 世界が閉ざされていく。

 自分の頰を流れているものを手で拭き取り、その手をめてみた。

 成程。

 男の言った通り、塩の味がした。

刊行シリーズ

こわれたせかいの むこうがわ2 ~少女たちのサバイバル起業術~の書影
こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~の書影