一章 天国のラジオ ①

 骨の髄まで冷える夜は、ゆっくりと時間をかけて皮膚を焼く昼へと変貌する。あの悪魔の象徴ともいえる太陽が東の山脈から顔を出す少し前にフウは目を覚ます。

 いつもより赤い目をこすり、持ち主のいないベッドを見下ろした。もう一度泣きたい衝動に駆られたが、そこまでの水分も「塩分」も身体からだに残っていないようだった。体調からいって、睡眠時間はおおよそ二時間くらいか、とぼんやり思った。

 どうやら、悲しみだけじゃ人は死なないし、死ぬ気にもならないようだ。胸の中に大きな穴を開けたまま、フウは再びせいの地平を歩き出す。穴の中を、後悔の風が吹き抜けていくのがたまらなく痛かったけど。

 フウは戸棚の乾いた干し肉と、プラスチックの容器に入った携帯流動食をポーチに入れ、ベルトにかかったさやにナイフを二つしまう。最後に赤子が入るほど大きなポリタンクをかついで家を出た。

 朝の六時、コンクリート造りの庁舎の前には十数人の人間が押し掛けていた。主に若い男や女で、フウはそれよりももう少し若い。庁舎の前には、四角い金属の機械がある。


「ママー、これなに?」

「ほじょきんはっこうきよ。こうやってこの黒い板に手を当てると」


 ──指紋を認証しました。世帯番号五二四。

 発行機から竜の横顔が描かれた紙幣が飛び出してくる。


「その日に使えるお金が出てくるの。これで今からマナちゃんの病気をなおすこーせーぶっしつを、買いに行くのよ」


 こーせーぶっしつ。意味は分からないが、その名を聞いたことはある。フウはポケットに手を入れる。水をケチって手に入れた「こーせーぶっしつ」を入れた容器が音を立てる。母親に必要なのは薬ではなく、水と塩だったのは皮肉にもならない。この命懸けで運んだこーせーぶっしつは必要ないのだ。

 そう、フウが持っていても意味はない。


 フウは「三人分」の補助金を大切にふところにしまい「第五管轄区」の出口に向かった。第五管轄区は有刺鉄線をロープにきつけ、それを丸木にくくりつけたバリケードに囲われており、東側に出口がある。警備兵と「おはよう」の挨拶を交わし、フウは管轄区を出た。

 第五管轄区から北に望む、平たい地平の向こう。そこに摩天楼の一群が、白んだ夜空に突出している。王都「チオウ」は今日も西側のハマキシマ工業地帯から排煙を天に昇らせていた。チオウと第五管轄区はその間に横たわる「西の砂漠」を歩けば三時間以内で移動できるだろう。だが、誰もそれをしない。西の砂漠を歩けばどうなるか、フウは昨日身を持って知った。

 そんなこんなで、出稼ぎ労働者や商人たちは東側の岩場を通るかいルートを選択せざるを得ない。一団の足並みはバラバラでだ。山岳地帯の「第四管轄区」に行く者や、野生動物を狩りに行く者、大型犬を連れてさっさと先に進む者。そしてフウのようにそもそも足が遅い者。

 一時間ほど歩くと、フウは一人になる。この名も無き岩場にあるのは岩とれきと、背の低い乾燥した植物である。東には高い山脈のりようせんが青空に波打ち、その山のてっぺんはどういうわけか白かった。フウはそれが塩だと確信していたが、管轄区の物知りいわく違うという。なんでもユキとかいう水の塊だとか。水はあんな色ではないので、フウは真に受けていなかった。

 とにかく、しばらくは砕け散った岩石の間をえっちらおっちら、足の痛みに耐えながら不毛の地平を少しずつ進んでいく。二時間ほど歩くと、風食が進んだ地域に出くわす。風に削られた岩場は迷路のようで、その中は影になっていて涼しい。ただし、足場が悪く、転びでもすればざらついた岩に皮膚をはぎ取られることもある。

 フウはある地点で足を止めた。耳を澄ませると、岩の間を吹き抜ける甲高い風の音に犬のうなり声が混じっているのが聞こえた。


「ウゥ、ウゥ」


 振り向けば背の低くやせ細った犬が、血眼でこちらをにらんでいる。

 ──王都から流れてきたいぬか。

 恐らく縄張り争いに負けここまで流れてきた口だろう。フウは左手にがいとうの裾を巻きつけ、右手で腰のナイフを抜いた。

 いぬは「死神」「闇の使い」などと呼ばれている。どういう理屈か分からないが、いぬまれた人間は光や水を恐れながら死んでいくからだ。その名を「きょーけんびょー」と呼ぶ者もいる。

 いぬはフウの身体からだきやしやだと見抜くなり大地を蹴って飛び掛かってきた。フウはとつに左手を差し出し、犬はがいとうの布の上に牙を突き立てる。すさまじいりよりよくでフウは岩壁にたたけられた。背中に鈍い痛みが走り、しびれが全身に拡散する。格闘の末フウは地面に押し倒され、犬がその上に馬乗りになった。腐臭をまとった牙ががいとうの布に食い込んでいく。荒いうなり声と、地獄からた悪魔のような目がフウを見下ろしていた。

 フウはナイフを犬の首に突き立てる。ナイフの先端は皮膚を食い破り、肉を裂いて骨まで達した。堅い骨の感覚が手に伝わってひどく気色が悪い。犬はそれでも全く力を落とすことなくフウの左手に牙を突き立てる。フウはナイフを引き抜くと、今度は鼻目がけてナイフを振り下ろす。銀色の刃が鼻をぎ落とし犬はひるんで飛びのいた。その隙にフウは犬の身体からだを蹴飛ばし、犬の顔面を思い切り踏みつけた。


「キャン」


 昔、管轄区にいた子犬がフラッシュバックして、フウの目から罪悪の涙がこぼれた。それでも、自分は生きなくてはならない。

 ──ごめんなさい。

 だから犬を踏みつけ、内臓に刃を突き立て、完全に動かなくなるまで攻撃を止めなかった。

 自分は生きなくてはならないから。

 生きなくてはならない。

 誰のために。


 出発から五時間。太陽は真南に移動し、死の烈日が大地を焼く。がいとうの上からも熱を感じる。素肌を数分さらせば夜は日焼けで皮膚が剝がれ落ちるだろう。

 しやくねつの地獄と化したれきの原野をフウは一歩、また一歩と踏みしめる。

 左手の小指が痛い。折れたか、はたまた骨折だけはまぬがれたか。背中の辺りは皮膚がけて出血し、歩く度に服とこすれて痛みが広がる。水の運搬で痛めた腰が犬との戦いで大きく悲鳴を上げていた。岩石に近い硬さの地盤も実につらい。

 歩くという拷問に顔をしかめながらも、フウはようやくチオウに辿たどいた。

 フウはフードの下から、鉄でできた巨大な門を見上げた。チオウは巨大な鉄の外壁に囲われている。外壁の根元には幾つもの穴が掘られ、そこからボロボロの衣服を着た人間が時折顔を見せる。それは都市の生存競争に敗れ、家を無くした人々のすみである。昼は自分で掘った穴に籠もっているが、夜になれば外に出て食べ物や小銭を調達しに行く。

 検問所の前には、防具付きの軍服を着た男が銃を携えて立っていた。


「君か。どうしたんだ、野犬にでも襲われたのか?」


 黒いヘルメットの中から若い男の声が聞こえてくる。フウは心配無用とだけ告げた。

 フウが門の外にある黒いボードに手をかざすと赤い光線がてのひらを走査する。数秒後、ボードが青く発光した。


『認証完了。第五直轄地区。第一六世帯』

「よし、通っていいぞ」


 巨大な鉄のもんはそのまま、隣の小さなドアが開けられる。チオウのよどんだ風がフウの鼻をついた。


 チオウ、それは砂漠にそびえる孤高の都市。第五管轄区が何千個も入るほど広いらしく、フウも東側のごく一部の地域しか知らない。中央部は〈ドテン〉という名の都心で、密集したビルが山のように天を衝いている。実際、かすみの向こうに遠く見るドテンはけんしゆんな山に見えた。東側には〈シモガジョウ〉というスラムがあり、出稼ぎ労働者の宿泊施設や貧困層の居住地など雑然とした街並みが外壁まで広がっている。家とは名ばかりの廃材を集めたバラックや、路上生活者、汚れた道路の脇に群がる露店など独特の風景を形成している。犯罪を起こせば軍の銃弾が飛んでくるので表立った犯罪はないが、それでも暴力カルテルや革命派のねぐらが至る所に存在し、えた悪臭とともにどこかけんのんな空気が漂っていた。

刊行シリーズ

こわれたせかいの むこうがわ2 ~少女たちのサバイバル起業術~の書影
こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~の書影