二章 「お兄ちゃん♀」 ②

 そのハロウレンのペイントにトマトを投げつけている男が一人いた。


「何が王だ! このペテン師め!」


 酔っぱらっているのか、反政府の人間か、どのみち関わらない方がいいと思ってフウは見て見ぬふりをする。

 そこから少し離れた場所にある工場と工場の間に、小さなコンテナが挟まるように置かれている。そのコンテナの扉にかかったなんきんじように鍵を突っ込んで扉を開ける。中は椅子や机が置かれ、机の上の本立てには拾ってきた教科書が並んでいた。簡易照明のスイッチを入れると、白熱灯のオレンジ色の光が室内に満ちた。フウは木の椅子に腰かけ、一つ大きく息をついた。

 壁のコルクボードには区から受けた依頼表がピンでとめられていた。「区長の飼い犬の世話」と、「白昼の労働者の護衛」に赤い線を引いた。


『需要は金になる』の可能性をフウなりに広げていった結果、困っている人を助けて金をもらうフリーの便利屋に落ち着いた。最初は仲介業者を通していたが、中抜きに不満を持って今は自営業である。

 フウは一時居住許可書を持っていない。だから、二日以上第五管轄区の自宅を空けると罰金を支払う必要があった。管轄区民は「税金」を払わなければチオウに居住することができない。だが、管轄区に家族を残せば特例としてチオウでの労働滞在が許される。いわゆる出稼ぎというやつだ。

 そういった事情で家族もおらず税金を納めていないフウは七日の内一日だけ、このコンテナに宿泊することが許されていた。

 フウはしばらく仮眠を取ると、北のゴミ捨て場へジャンク品をあさりに出かけた。フウはイヤホンのプラグをラジオに差し込み、電源を入れた。誰にもラジオを見られないよう、ポーチの中にすっぽりと隠す。番組の内容はチオウの神話に反していることもあるため、警察に見つかれば罰金、いや、ラジオを取り上げられることもあるかもしれない。

 夜の七時は〈明日への案内所〉の時間だ。社会系の番組で歴史を経済、政治、思想とからめて学ぶ。


『つまりそれまでの戦争では食料は略奪によって賄うのが基本だったんですね。我々の想定する補給というのは、成熟した国家、制度、技術がないと成立しないんです』


 この一ヵ月は戦争にフォーカスを当てている。六時以降の番組はかなり応用的な内容になる。〈童心科学〉や〈我が大地〉などの番組をあらかじめ聞いていると、地理や科学の基本的な知識がきて内容もスッと入ってくる。

 いつ放送のストックが無くなるかとフウは気が気じゃないが、今の所二年保っている。かれのラジオ放送局の上に「ミサイル」が落ちてくるまで、彼らは番組を作り続けていた。番組のストックが無くなる日がいつ来るのかは分からない。だが、今の有志による放送はどこかでループするはずだ。


『──近代社会の生産力が──を可能──』


 ラジオにノイズが入ってフウは不機嫌になった。チオウはいろんな電波が乱れ飛んでいるからか、電波の受信にムラっ気がある。ぶったたいてやろうかとも思ったが、壊したくはないのでぐっと堪えた。ラジオはフウの命であり全てだ。

 ならフウには何もないから。

 母のために水を運ぶのが、フウの人生の全てだった。母がいなくなったフウには目的があるようでない。昨日より賢くなる。それだけが、今のフウの全てだ。

 都市の乾いた風がいつもより冷たく感じられた。

 フウはジャンクの山を見上げて一つため息をつく。気を取り直してそこから、扇風機や車のダイナモなど金目のものを目ざとく見つけて麻の袋に入れた。袋がいっぱいになると、フウは近くの公園を通って帰る。キンベイの公園は小奇麗で、木々が夜風にささやき、街灯の青白く冷たい光がどこか幻想的で好きだった。

 フウはイヤホンをはずし、風の音に耳を澄ませながら冷たい光の中を歩いた。世界に自分しかいないような、静かな夜だった。

 音が無くなると、胸の空洞が痛む気がする。静夜というものはどうやら、人のトラウマを思い起こさせるような作用があるらしい。フウは胸を押さえた。気を紛らわせるために何かをしようとポケットに入ったチョコレートバーを取り出した。チョコの層に挟まれたクッキーがあまあまサクサクで実にい。フウはその食感を楽しみながら街灯の冷たい光の中を歩く。せいひつな夜の公園に菓子を食べる音が不自然なまでに響いていた。

 フウは足を止めた。道の真ん中にサソリがいる。「ドクトウゲ」という壁を登れるサソリで管轄区からチオウの住宅街で広く見かける。死ぬほどの毒ではないが刺されれば一週間は激痛が続くのでフウはコイツが大嫌いだった。

 フウがサソリを避けようとしたその矢先だった。


「一撃、ひっさああああああああああああああああ!」


 どこからともなく少女の声がとどろいた。突如、街路樹から少女が降って来たかと思うと手刀のいつせんでサソリの尾をたたき斬る。黒地に白のラインが入ったセーラー服。それは、上級学校の制服だ。だが、少女を見る限り上級学校生のような品のある感じは無い。髪はショートカットで、顔は……まぁ、わいい方だった。ちようを思わせる黒いリボンが風圧で、ぴょん、と揺れる。


「たんぱくゲットー!」


 少女は暴れるサソリをわしづかみにすると大きく口を開いた。まさか──

 中々えげつないしやく音をひとしきり出した後、少女はフウを振り向いた。口からはみ出たサソリのハサミをくだき、サソリの体液でテカった唇を右手で拭う。少女はフウの持っているものを見るなり「にへらぁ」と妖怪のように笑った。


「ちょ、チョコレートだ」


 少女のだらしなく開いた口からあり得ない量のよだれが、でれえぇ、とあふれていた。そのうつろな目といい、ちゆうはんな笑顔といい、まるで薬物中毒者のようだ。フウは反射的にチョコレートを隠す。


「あぁ、」


 少女の眉尻がしゅんと下がった。これはちょっと幼い子供っぽい。


「おなかが減りました」


 そうですか。無言で距離を取る。


「おなかが減りました!」


 強く言われたところで……

 すると少女は、今度は泣きそうな顔で


「おなかが減りましたぁ……」


 流石さすがに極悪人ではないようだが、面倒くさそうなやつではある。少女はおなかをさすって、ぐすんとうつむいている。そういえば、昔はこうやって駄々をこねると母親が配給の干し肉を分けてくれたっけ、と思い出す。やめときゃいいのに、と自分で思いながら食べさしのチョコレートバーを差し出していた。


「はえ?」


 もう一度チョコレートバーを突きつける。


「いいの?」


 フウは首を縦に振った。


「ありがとう、お兄ちゃん!」


 お、お兄ちゃん?

 呼称はともかく、ありがとうと言われるのは悪くない気がした。緩んだ笑顔を引き締め直す。もしゃもしゃと子犬のようにチョコレートバーを食べる少女の脇を通り抜け、コンテナへと急いだ。

 もしゃもしゃ。というしやくおんがずっと背中に張り付いている。フウは振り返った。指に付着したスナックをめ取ってる少女がいる。

 ついてきている、と問う。


「あわよくば泊めてくれないかとおもいまして」


 泊めるわけねえだろ。言葉の通じる相手ではないと判断し、きびすかえして走り出した。

 フウはそれなりに足が速い。その辺の少女の足では追いつけまい。快足を飛ばし、閑静な住宅街を縫いながら複雑な帰路を描いてコンテナまでたどり着いた。

 背後に追ってくる気配はない。フウは扉を開けてコンテナに入った。ちょっと休んだら銭湯に行って早く寝よう。私は何も見なかった。椅子に腰を下ろし、ボトルの水を飲む。


「狭い部屋だねー」


 ブッ。フウは水を吹き出した。貴様がここにいる! 危うく拳銃に手を伸ばすところだった。さっさと家に帰って寝ろ。そう言うと少女はコクリとうなずいた。そしてベッドの中にもぞもぞと潜り込む。起きろ。フウは毛布をけた。


「もう朝?」


 出ていけ。扉の外を指し示す。少女がしゅんとするので、少し胸を押さえた。


「今夜だけでも」


 出ていけ。より強く出口を指差した。フウがマジだと分かったらしく、少女はしょんぼりと肩を落として入口から出ていった。その体が暗闇に溶ける寸前、捨てられた子犬のようにフウを振り返る。そのかなし気な視線を遮るように扉を閉めた。

刊行シリーズ

こわれたせかいの むこうがわ2 ~少女たちのサバイバル起業術~の書影
こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~の書影