二章 「お兄ちゃん♀」 ①


 ラジオを何時間も聞いているとある問題が出てくる。それは視覚情報の問題だ。すなわち音声だけじゃ実物を見ることができない。胃や腸などと言われても形や色はいまいちピンとこない。他にも問題はある。大事だと思ったことを形として残しておけない。

 だが、フウはこれを自分の知恵で解決した。上級学校に通う、〈ドテン〉の学生が捨てた教科書とノート。これを再利用することで視覚情報の問題はクリアした。教科書は図が豊富で、フウにとっては宝のようだった。

 教育チャンネル〈タイラク教育学校〉のプログラムは日曜日に単語の復習プログラムやリスナーの気になった単元のハイライトなどがあるので、意識的に活用すれば学習の効率は高くなる。さらに、道中で気になった単語をメモし、それをノートに書きためていけばいつでも学習を振り返ることができる。

 初歩的な識字と算術を教えてくれた母にフウは感謝せざるを得ない。

 こうして一人の少女は小さな学校を携えて、何百回もチオウと第五管轄区の砂漠を往復した。教育はいつしか当たり前になり、フウはその自覚も無く枯れ果てた知識の泉に水を注いでいった。だが、フウはこうも考える。

 ──私が水で満たされるのは、私が空っぽだからでは。

 学習は楽しかったが、フウの人生は充実しているとは言えなかったのだ。


 その日はとりわけ暑かった。太陽から注ぐ「紫外線」の雨が、乾いた大地に降り注ぐ。大地は「かげろう」を吐き出し、西の地平線はゆらゆらと揺れている。フウはがいとうの下に肌を隠し、チオウへ至る岩場を歩いていた。


「ピッ」


 がいとうの下でサバクオオブンチョウの〈アサ〉が顔を出す。拳二つ分ほどの身体からだを純白の体毛が包んでいる。つぶらな瞳に黒い過眼線がいいアクセントになっていた。二年の歳月はよちよち歩きのひなを立派な成鳥へと変化させる。最近は昔ほど甘えてくれないので少し寂しいフウである。


「ピピピッ!」


 そのアサは緊張感のある声を発した。岩場のどこかから野犬の足音が聞こえてくる。

 フウは腰に差さったを抜き、スライドを引いて臨戦態勢に移った。


「グゥ」


 ひときわ体格の大きな犬だった。恐らく、チオウの闘犬が野生化したものだろう。黒い毛に覆われた肉体は筋肉で隆々としており、血走ったはフウの喉笛を見据えている。

 フウは冷静に犬を見下ろした。辺りに大人の男の気配はない。叫んでも誰も助けてくれないだろう。犬は長い四足をたたみ、姿勢を低くする。恐らく飛び掛かるための「運動エネルギー」をためている。野犬がフウに飛び掛かろうとしたその時だった。

 乾いた銃声が岩の間を飛び回る。やつきようが地面に落ちて「キン」と小さく鳴いた。フウが高々と掲げた半自動式拳銃がわずかな硝煙を昇らせている。

 野犬は銃声を聞くとフウとは反対方向に飛び上がり、文字通り尻尾を巻いて逃げ出した。フウは拳銃を腰のホルスターにしまう。そしてふところのオオブンチョウの頭をでつつチオウへ向かった。


 今日もチオウは雑居の裾を外壁まで広げている。労働者が狭い通りにひしめき、大通りのビルには手作りのネオンが毒々しく光っている。フウはシモガジョウの〈落雷通り〉に向かった。シモガジョウの落雷通りはよく整備された主要幹線で車の行きかいが激しい。この落雷通りはチオウの中心部へと一直線に延びている。道路を西に歩くと、バス停が見えてきた。バス停と言っても、路側帯に赤い「バス」と書かれた文字と壁にびた時刻表のプレートがかかっているだけである。

 しばらくそこで待つと時刻表の時間を二〇分ほど過ぎたところでバスが止まった。青の塗装は経年に剝げ落ち、排気ガスはいかにも害のありそうな臭いを放つ。かなきりごえを上げて扉が開き、フウは中に乗り込んだ。緩衝材のはみ出た椅子はひどく座り心地が悪い。バスの中には箱詰めされた荷物が幾つか積まれている。公共のバス会社は物資の輸送サービスはしていないので、恐らくは運転手の小遣い稼ぎだろう。

 そんな荷物と共に揺られ、二時間かけて中央都市〈ドテン〉へ辿たどく。三〇〇オウチを支払い、フウはバスを降りた。

 ドテンは百メートル級の高層ビルがこれでもかと密集するチオウの心臓部で、「経済活動」の中心地でもある。

 ドテン北側にある〈フラク〉というビルにフウは足を運ぶ。道路にはゴミもなく、小ざっぱりとした街路樹が風に深緑の葉を揺らしている。歩道も車道もしっかりと舗装され、シモガジョウのように亀裂が入っていたり、潰れたゴミがへばりついていることもない。行きかう人々も小奇麗に整った洋服を着ている。がいとうに汗臭いシャツを着たフウの格好はかなり浮いていた。


「このあとどうする?」

「私は学校に戻って勉強するわ」


 落ち着いた女性の声に視線を向ける。通りを駆け抜ける乾いた風に紺のプリーツスカートが揺れた。黒地のシャツには白色のラインが入っている。それを身に着けていた三人の少女は全く同じ服装だった。セーラー服なる上等階級の学生が着る制服らしい。

 三人の少女は優雅な足取りでこちらに歩いてくる。そのすれ違いざまに、


「「「ごきげんよう」」」


 と笑顔で頭をさげた。フウもつられて頭を下げる。フウはその背中を少しだけ見てから前を向く。管轄区民に笑って唾を吐いてくる中流層の学生と違ってよく教育されている。

 フウは「フラクビル」に辿たどくとビルの外側にあるりの鉄階段を上って一〇階に行く。一〇階の壁には鉄の扉があって「ほうおう銀行」と書かれていた。扉を開けると、薄暗い照明の中に四つの窓口を並べたカウンターと正対した。薄暗いのは節電のためらしい。窓口の女性は小奇麗なスーツを着ていて控えめな笑みを浮かべている。


「お待ちしておりました。便利屋ぎようの調子はどうですか?」


 ぼちぼち、とフウは生返事をした。便利屋ぎようとはなんとなく聞こえが悪い。困ってる人を助けてお金をもらってる聖女をつかまえてだな……とフウは心の中で愚痴を吐く。

 フウはポーチの財布から五枚の紙切れを取り出し、三番窓口に差し出した。長方形の薄い紙で、そこには第四管轄区と第三管轄区の区長の署名、そしてそれぞれ異なる口座番号があった。


ざいの承認ですね。恐れ入りますが、こちらの紙に楷書で署名をお願いします」


 ほうおう銀行のロゴが書かれた紙にサクマ・フウと署名をする。銀行員の女性は後ろの引き出しから区長の署名とフウの署名が書かれた別の紙を取り出し、それをセンサーで読み取って筆跡の承認をする。


「承認が完了しました。区の口座から出金するのでしばらくお待ちください」


 女性は10000と書かれた紙幣を五枚、窓口に差し出した。


「最近、野盗が多くてさいの需用も高まっています。ご実家に帰られるときはどうかご注意を」


 フウは軽く頭を下げ、銀行を後にした。

 さいサービスは「為替」の一種で、管轄区で仕事をした後その給料をチオウで引き落とすことが出来る。現金を持ち歩かなくてもいいため、野盗に襲われた時のリスクを減らせる。だが区民は為替の重要性を意識しておらず口座も持っていない。手持ちの現金を奪われでもしたら最悪明日からの生活に支障が出る。

 半年くらい前は野盗そのものが少なかった。だが、大きな干ばつの影響で食料と飲料水が高騰し、その余波で野盗は増えた。


「もう少し資産が増えたら投資などしてはいかがでしょうか。最近は王へのもつを仲介するビジネスへの投資が人気ですよ」


 投資。とは簡単に言えばもうかりそうなビジネスに金を突っ込んで利益を得ることだ。工場を建てたり、従業員を雇ったりするのも投資である。個人レベルだと資産運用の文脈で語られることも多い。フウにそこまでのビジョンはないので、軽く聞き流して銀行を出た。


 フウは五万オウチの金を握りしめ、ドテンの大通りを歩いて郊外の〈キンベイ〉に足を運ぶ。

 キンベイはドテンの南に隣接する区域で、ドテンで働く中流労働者の居住地になっていた。キンベイの東側には食品加工場がいくつか建ち、とある工場の壁にはせいかんな男のペイントがしてあって「あらひとがみ、ハロウレンをたたえよ」の文言が書かれていた。この大地は神が創造し、その神の化身がチオウの王、ハロウレンらしい。科学という別のを見つけたフウにとっては無縁の信仰だった。

刊行シリーズ

こわれたせかいの むこうがわ2 ~少女たちのサバイバル起業術~の書影
こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~の書影