ウィスタルは、その立派な体軀に不似合いなほどの優しい眼をしていた。その眼で塔の上から国を見つめ、そしてフェリオを見つめた。
ウィスタルの指は、街を指し、霞む山々を指し、そして雲の漂う遙かな蒼天を指し示した。
「フェリオ様。この国は、広いでしょう?」
フェリオは頷いた。塔から見える範囲の全てが、アルセイフという国だった。そしてさらにその先には、まだ見たことのない他の国々と、広大な海が広がっている。
ウィスタルは、心持ち声を潜めた。
「官僚達には、この光景が見えておりません。おそらく、兄君達にも──フェリオ様。僭越ながら貴方には、王宮のことよりも、この国のことを、この視点で見ていただきたいと願っております」
そう言ってウィスタルは、分厚い掌でフェリオの頭を撫でた。
「王宮などは、この国の中における、ごく小さな閉じられた世界なのです。世界は内に籠もるのではなく、外へと広がっていくべきもの──そのことをどうか、お忘れなきよう」
ウィスタルの言葉の半分以上は、当時のフェリオには意味がわからなかった。だが、その言葉だけは記憶に刻み、数年もしてから、その意味を多少は理解したつもりになった。
その数年の間に、フェリオはウィスタルから護身のための剣を習い、すくすくと成長していった。
そして今は、その元を離れ、こうしてフォルナム神殿に独り滞在している。
フェリオはまがりなりにも王子で、ウィスタルは騎士である。二人の関係は、傍目には主と従だった。しかしもし、ウィスタルが自分に眼をかけてくれなかったら──フェリオは思う。自分はきっと、今のようには育っていなかっただろう。
この神殿に来て日々を過ごす中で、フェリオは時折、そんなことを考えていた。
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フェリオが寝室を追いだされてしばらくが経つと、廊下に面した別の扉から、ノックの音が響いた。
親善特使にあてがわれた部屋は、廊下に面した居間を中心に、執務室や寝室、風呂などが配されている。
その居間の扉を小さく叩く音に、フェリオはそっと歩み寄った。
「フェリオ様、お休みのところ、申し訳ありません」
響いたのは、顔見知りの衛兵の声だった。
フェリオは安心して扉を開け、自ら廊下に歩み出る。
「どうした。なにかあったか?」
そう問うと、若い衛兵は恐縮したように頭を下げた。
「はい。実は神殿内に、不審者がまぎれこんだ可能性があるとのことで──神師様からじきじきに、ついさきほど捜索命令が出たのです」
フェリオはぎくりとした。眠る少女の姿が脳裏に浮いたが、しかし顔では平静を装う。
「不審者だって? 泥棒でも入ったのか?」
「いえ、どうもよくわからないのですが、怪しい人物を見つけたら、できるだけ丁重に保護するようにと指示されておりまして。フェリオ様も、もし何者かを見つけましたら──」
応える衛兵の言葉を、甲高い女の悲鳴が唐突に遮った。
不意のその声は、フェリオの寝室から響いたものである。
フェリオは衛兵と顔を見合わせ、ほんの数瞬、固まった。しかし次の瞬間には、二人揃って反応し、勢い込んで寝室へと駆け込む。
扉を蹴ったフェリオは、悲鳴と同時に連想した通りの光景を眼にして、その唇を嚙んだ。
血に汚れた半裸の少女が、施療師クゥナを羽交い締めにし、その首筋をきつく押さえていた。寝台の上、クゥナは困惑した様子で、悲鳴だけはあげたものの抵抗もできずに固まっている。
少女はクゥナに服を脱がされる途中だったらしく、上半身だけが裸だった。飛びこんできたフェリオ達を怯えた眼で睨み、掠れがちな声を張り上げる。
「う、動かないでください! 動いたら、この人を……」
首を押さえた指に、少女が力を込めるのがわかった。
身構える衛兵を手で制し、フェリオは努めて軽く声をかけた。
「待て待て。よくわからないけど、人質が欲しいなら俺と交換しよう。その人、身重なんだ。いま大事な時期だから、荒っぽいのはちょっと……」
相手の威勢を削ぐつもりで、フェリオは声質を優しくした。内心の焦りは隠し通している。
その言葉を受けて、少女の眼がびくりと震えた。同時に、当のクゥナと衛兵も眼を剝く。
クゥナが身重というのは、フェリオが咄嗟に思いついた噓だった。もし相手が悪人ならば、そんなことは気にもしないだろうが、仮に良心のある人間であれば、そうと聞かされて乱暴な真似はできない。
案の定、少女は目に見えてうろたえ、せわしなく辺りを見まわすと、窓にその視線を据えた。
意図はフェリオにも読めたが、クゥナが囚われている以上、まだ迂闊には動けない。
少女はクゥナを押さえたまま、寝台から立ちあがり、じりじりと窓の傍へ寄った。
外の様子を確認し、その腕からクゥナを離す。間髪をいれず、自らは窓を開け、月明かりの下へと身を躍らせた。
フェリオは息を吞んだ。ここは二階で、窓の外には堀がある。数瞬の間を置いて、派手な水音が響いた。
呆然とするクゥナと衛兵を置いて、フェリオも腰の剣を外し、少女の後を追う。
「フェリオ様!? いけません!」
クゥナの悲鳴じみた声を背後に聞きながら、フェリオは足から堀に飛び降りた。
暗闇の中での落下は、瞬間的に背筋を凍らせた。すぐにその身は冷たい水面へと落ち、フェリオは一瞬だけ方向の感覚を失う。
青白く月の光が照らす中に、フェリオは少女を探した。その姿を眼が見つけるよりも早く、少し先を泳ぐ水音に耳が気づく。
見れば、少女の泳ぎは存外に速かった。
泳いで後を追いながら、フェリオは、内心で歯嚙みしていた。
少女がおとなしくさえしていれば、いくらでもごまかしようはあったのだ。何かに怯えている様子だったが、軽率な真似をしたものだと思う。
少女は堀の端にたどりつき、石垣に打ち込まれた鉄の梯子をのぼり始めた。神殿内の堀は、円を描くようにして内部を巡っており、小規模な運河としても用を為している。防犯の意味は薄いため、ところどころに上へ通じる梯子や階段が設けられていた。
「──ったく、ついさっき、風呂に入ったばかりだってのに」
ずぶ濡れになったフェリオはぼやきながら、その後に続き、梯子に手をかける。月明かりの中、少女が上から振り向いた。
「来ないで! 私に近づかないでください!」
その悲鳴に、フェリオは違和感を覚えた。声は澄んでいたが、発音がやや狂っている。御柱から出てきた時点で、この国の人間ではないだろうと予想してはいたが、改めてそのことを確信した。
フェリオは少女に向けて声を張った。
「なぜ逃げる!? 君は、ここがどこだか、わかっているのか?」
フォルナム神殿の周囲は、高い壁に囲まれている。四方の門以外に出口はなく、手続きをしなければ、侵入も脱出も容易ではない。
このまま少女が無理に逃げようとすれば、事態がややこしくなるのは眼に見えていた。少女のためにことを穏便に運びたい一心で、フェリオは彼女の後を追った。