仮に価値がなければないで、王族が民を助けたという〝慈悲深い〟話になる。どう転んでも、フェリオの損にはならない──あまり気は進まなかったが、フェリオはそうした形でクゥナを説得することにしたのだった。
本音をいえば、単に少女の素性が気にかかり、ここで他人に預ける気にはなれなかっただけのことである。御柱から出てきたなどと言って信じられるはずもないし、もし気がついた彼女がそのことを下手に主張すれば、精神を病んだ者として扱われかねない。
だからフェリオは、彼女が起きた時にまず話を聞くのは、あの場に立ち会った自分の役目だと思った。そのためには地位を利用し、クゥナに誤解されてでも、我を通す必要がある。
身柄を預かることにしておけば、彼女が目覚め次第、必ずフェリオの元へ連絡がくる。また、その処遇を巡っても、フェリオの意向がものを言うはずだった。
クゥナは反論せずに、小さく頷いた。
「……わかりました。そのように手配いたします」
声には、わずかに不快感があった。
彼女はおそらく、フェリオの本心を曲解していた。しかしこの際、フェリオにとっては、そのほうが都合がいいのである。俗物と思われたな、と、フェリオは内心で苦笑したが、それだけのことだった。
エリオットの幽霊話には、ただの好奇心で乗った。しかしこの少女の身に関しては、好奇心もさることながら、もっと切実なものを感じている。
フェリオはこのことが、ただの不可思議な現象ではなく、何かのきっかけであるような予感を持っていた。それは根拠のないことではない。柱の中の少女を見たとき、エリオットは「自分が見た幽霊とは違う」と言っていた。後で詳しく問う必要もありそうだが、普通に考えれば、柱の中に他の人間もいるということである。
そして少女は、気を失う寸前、フェリオを何者かと勘違いし、〝殺さないで〟〝みんなを〟と、うわ言のように呟いた。〝みんな〟というからには、彼女には仲間がいるはずである。殺さないで、というのも穏やかではない。
あの柱の中から、この少女と同じように、また別の何者かが現れる可能性も否定できなかった。
内心でそんな思案を巡らすフェリオに、クゥナが声を投げた。
「フェリオ様。ひとまず、この子の服を脱がして、体についた血を拭きます。部屋の外へ出ていていただけますか」
さきほどのやりとりのせいか、声には多少の険が籠もっていた。
「あ──そうですね。うっかりしていました。よろしくお願いします」
フェリオは言い訳もそこそこに、すばやく退散することにした。ここはフェリオの寝室だったが、今だけは眠る少女の寝室である。ついでに、クゥナの機嫌も損ねてしまった今は、そんなことで抵抗する気もない。
寝室を出て扉を閉じ、フェリオはその前にしばらく立ち尽くした。
なにはともあれ、少女が意識を取り戻さなければ、話を聞くこともできない。
やがて扉越しに、衣ずれの音が聞こえてきた。
フェリオは眼を閉じる。
──遠い昔。幼い頃。
部屋に入ることを許されず、ただ扉の前で、今と同じように衣ずれの音を聴いていたことがあった。
その頃の記憶を、不意に思いだす。
それは聖祭の式典を目の前に控えた、準備の最中のことだった。
三人の兄達は式典に出席するため、それぞれに別の部屋で着替えをしていた。
遊び相手もいなかった当時のフェリオは、ただ一人、扉の前で兄達を待っていた。
それはただ、待っていただけだった。
兄達が出てきたところで、その後についていくこともなく、そのままフェリオは扉の前で、今度は兄達が式典から戻ってくるのを待つことになるはずだった。
フェリオは王族の身ながら、その式典への出席を許されていなかった。
まだ彼が幼かったこと、そして第四子という立場であることが表向きの理由だったが、実際のところ、フェリオは王子にして、身内には王族と認められていなかったのだ。
側室の末席にいた母親は、フェリオを生んですぐに亡くなってしまった。その母の実家はとうに零落した貴族で、その両親、つまりフェリオの祖父母も、フェリオが生まれる遙か前に、馬車の横転事故によって命を落としていた。
したがって、王宮での後ろ盾となる母方の実家もなく、また第四子という立場のために貴族達からも軽視され、王宮にフェリオの居場所はなかった。
父のラバスダン王は、そんなフェリオを憐れがって王宮に置いたが、あまり言葉を交わした記憶もない。兄の母達からは、王の寵愛を奪った妾に対する嫉妬から疎まれ、〝下賤の子〟と、面と向かって侮辱されることさえあった。
そんなフェリオを育ててくれたのは、世話役の乳母と、そして現騎士団の長である重臣、ウィスタル・ベヘタシオンである。
幼い頃のフェリオが、することもなく、ただ扉の前でぼうっと兄達を待っていた時──
不意に太い腕が、背後からフェリオを抱えあげた。
それが壮年の頃のウィスタルだった。
当時はまだ王宮騎士団の小隊長で、剣腕は随一と知られていたが、重職には就いていなかった。フェリオも彼のことは知っていたが、それまでは特に親しかったわけでもない。
そして彼は、式典の最中にフェリオを高い塔の上にまで連れていった。
フェリオは今も、そこから式典の様子を見下ろしたことを、よく憶えている。
式典は豪奢なものだった。王宮の中庭に、きらびやかな衣装をまとった王族と貴族が集い、楽団の演奏の中で、よくわからない形式ばった儀礼を進めていた。
その中には、兄達の姿もあった。
一番上の兄は、フェリオと口をきいたことがなかった。正式な皇太子で、貴族の誰もが一目を置く存在だった。
二番目の兄は、放蕩癖のある、貴族趣味の遊び人として名を馳せていた。話したことはあるのだが、会話の内容は手ひどいものだった。彼はフェリオの存在を、王の〝遊び〟の結果といい、誰にも望まれない人間だと明言した。
三番目の兄は、唯一、フェリオとも遊んでくれた兄だった。王位継承権がやや遠いことと、それから歳が近いせいもあって、フェリオにとっては唯一の〝兄〟だった。それでも、彼の母親がフェリオを疎い、兄もそれを慮って、人前ではフェリオに関わろうとしなかった。
幼い頃のフェリオにとって、王宮は居心地のいい場所ではなかった。いつも疎外され、寂しい思いにも慣れ、そしてフェリオは笑わない子供になりつつあった。
ふらりと現れたウィスタルが、フェリオを塔に連れて行ったのは、ちょうどそんな頃のことだった。
「フェリオ様。あれを御覧ください」
ウィスタルはそう言って、たくましい腕を窓の外に突き出し、中庭の式典を通り越して、遠くの街並みを指差した。
色とりどりの屋根の間を、幾本もの細い道が縦横に走り、その道を人や馬車がせわしなく行き交っていた。
塔の窓から見える城下の街は、フェリオにはまるで、物語にある異世界のように見えていた。そこに大勢の人が暮らしていることは知っていても、そのことが実感としては摑めない。
そしてフェリオを胸に抱えたウィスタルは、野太い声で呟いた。
「──今、貴族や官僚達の多くは、式典を無事に済ますことだけで頭が一杯です。兄君達も、おそらくはそうでしょう。ですが王宮での式典などは、この国の多くの人間にとって、ごく小さな、どうでもよい些事なのです」