緩やかな曲線を描くその胸には、施療師の証である星十字をあしらった紋章が縫い付けられている。
呼び出された施療師、クゥナ・リトアールは、フェリオに優美な一瞥を送ると、足早に寝台の傍へと歩み寄った。
まだ二十代の半ばと歳は若いクゥナだが、腕のいい施療師として、神殿内でも評価が高い。
フェリオは場所をゆずって、施療師を少女の傍に座らせた。
すぐにクゥナは、ランプを頼りに少女の体を診はじめる。
「怪我人は、こちらの方ですね。どのような素性の方でしょう?」
傷口を探しながら、クゥナが問う。エリオットはフェリオの言いつけ通り、何も知らせていないらしい。
フェリオはすらすらと、用意していた噓を並べた。
「神殿の外で倒れていたのを、私が見つけて拾ってきたのです。街の施療院に運ぼうかとも思ったのですが、もう夜でしたし、出血が多かったので急いでここへ──」
エリオットの前では一人称が〝俺〟だが、年上のクゥナの前では、公人としての立場を意識せざるを得ない。自然とその言葉遣いも相応のものとなる。
クゥナは頷きながら、さきほどのフェリオと同様に首を傾げた。
「なるほど。確かに出血が多いようです。ですが──」
ランプの火を動かして、少女の衣服を切り口からめくり、慎重にその肌へ指を這わせていく。
「……肝心の傷口が、見当たりません」
いぶかしげに、彼女はそう呟いた。
クゥナは眠る少女の額に手をあて、脈をはかり、さらにはランプの光で瞳孔の動きを確かめた。
フェリオはじっと、診察の様子を見守る。
「気絶しているようですが、この血は吐血によるものなのでしょうか? 体の方には、傷らしい傷が見当たりませんわ」
施療師クゥナは、そう結論づけた。
フェリオは困惑しつつ、寝台を染めた大量の血の跡を指差した。
「でもクゥナさん、この血は、服の内側に溜まっていたんです」
クゥナがまた首を傾げた。
「確かに、まだ服の内側には血が溜まっていますね。でも傷口が見当たりません。脈も正常ですし、まるで……服の中に、血を注いで着ていたようですわ」
フェリオは何も応えられなかった。大怪我と思って慌てたが、肝心の少女が無傷では、施療師を呼んだ意味もない。
だがそれでも、フェリオには彼女が無傷ということが信じられなかった。無傷ならば何故、気絶などしているのか、その原因も気にかかる。
フェリオが裂いた少女の服に、クゥナがそっと細指を添えた。
「フェリオ様。この血のことも不思議ですが……この服も、不思議な品に見えますね。とても珍しいものですが、いずこの織物でしょうか」
クゥナのその疑問は、フェリオにも通じるものだった。少女の着ている服は、明らかにこの辺りの文化からは外れている。
この広大なソリダーテ大陸には、さまざまな文化が混在していたが、フェリオの知る限りでは、彼女の服はそれらのいずれとも合致しない。
フェリオの知らない異文化も多いはずだが、少女の服は明らかに、高い技術力によって作られていた。交易商人達が喜んで扱いそうな布なのだが、フェリオはもちろん、クゥナも見たことがないという。
クゥナの疑問を受けて、背後からエリオットも少女を覗きこんできた。しかし血の跡に怖じ気づいて足元を震わせ、すぐに部屋の隅へと下がってしまう。気の弱いエリオットに、大量の血は刺激が強すぎるらしい。剣術修行の怪我で血に慣れているフェリオでも、あまりいい気はしない。
「エリオット、悪いけれど、この子の着替えを用意してきてくれないか」
血の苦手な優しい神官を気遣って、フェリオは用事を言いつけた。
「は、はい。では、取り急ぎ……」
血の臭いにあてられたか、エリオットは少しよろめきながら、寝室の外へと出ていく。
フェリオは改めて、眠る少女の顔をじっくりと見つめた。
ひどく肌の白い、美しい少女だった。黒髪も滑らかに長く、毛の先まで手入れが行き届いている。おそらくは、日向で農作業をしたこともないのだろう。
地位が高いのか、それともどこかの商人の箱入り娘か、さもなくば──女神のような、人ならぬ存在か。
自分の現実離れした妄想を、フェリオはすぐさまに内心で否定した。そもそもフェリオは、神の実在を信じていないし、少女の体は確かに人間のものに見えた。
眠る少女の顔に一条の光がかかり、それに合わせて部屋の中が急に明るくなった。
窓の向こうで、雲に隠れていた月が、ちょうどその顔をだしつつある。
真っ青な、それこそ空の色に近い青さを湛えたこの星の衛星が、闇夜を優しく照らした。じゃがいものような形をしたいびつな月は、この国では古くから〝空ノ鐘〟と呼ばれている。年に一度、ちょうど聖祭の頃に、その月は鐘に似た音を鳴らすのだ。
本当に月が鳴っているわけではなく、音の原因は誰も知らないのだが、その不可思議な音は必ず空から降ってくる。そのために、月が鐘となって鳴らしているのだと古くから言われていた。
青白い月光と、ランプの柔らかい光とが混在する部屋で、フェリオはクゥナに向き直った。
「怪我のことは、私の早とちりだったようです。クゥナさん、ご足労をおかけして、すみませんでした」
「いいえ。これだけの血を見れば、普通は傷があるものと思いますわ」
クゥナは柔らかく微笑して応えた。
「では、意識が戻るまで、この行き倒れの子はフォルナム施療院に預けましょう。まさか、このまま放り出すわけにもいきません」
クゥナは優しげな笑みを浮かべ、そう提案してきた。
神殿の経営する施療院は、貧しい者達にも安価で治療を施している。それは神殿の権威を守るための人気とりという側面もあったが、現場で実際の治療にあたる施療師達には、患者のことを真に憂える人格者も多い。クゥナは神殿に住み込む〝神殿の〟施療師だが、彼女もまた、フォルナム施療院から派遣される形でここに滞在していた。
まだ付き合いは浅いが、フェリオの眼には、信頼に足る人物として映っている。
「そうしていただけると、私も助かります」
そう応じながら、フェリオは交渉用の柔らかい微笑をつくった。
「私がこの子を拾ったのも、何かの縁でしょう。この子は私の名を使って施療院にいれてあげてください。治療費も私が負担いたします」
それは、〝身柄を預かりたい〟という意味でもあった。
クゥナはかすかに首を傾げた。王族が〝行き倒れ〟の身許引受人になるなど、前例がない。そもそも、この神殿内でのフェリオは客分の身である。見ようによっては、ですぎた真似ともいえた。
「いえ、それには及び……」
クゥナが穏やかに拒絶するより早く、フェリオは続けて言葉を発した。
「この子は、ただの行き倒れとも思えません。衣服も変わっていますが、様子を見る限り、それなりに地位のある方の娘御かと思います」
フェリオは、娘の髪や肌が日に焼けていないことを暗に示唆した。細い四肢といい整った顔立ちといい、労働層の民には見えないのも事実である。
クゥナの眼が、微妙な揺らめきを宿した。フェリオの言葉の裏を敏感に察したらしい。
この少女には、もしかしたら政治的な利用価値があるかもしれない──フェリオの言は、そんな意味を内包していた。