「それが、私には何も──内々のお話のようなのです。まずはレミギウス様にお会いしてからと仰せでした」
着替えを終えながら、レミギウスは鷹揚に頷いた。
寝室を出ると、廊下を抜けた執務室から明かりが漏れていた。神師の住む一隅は、神殿の中にありながら、一つの家のような体裁をもっている。執務室に入るのにも、外の廊下で衛兵の制止を受ける。コウ司教を先に通したのは、従者であるメイヤーの機転らしい。
レミギウスが執務室に入ると、そこには背の高い見慣れた影が佇んでいた。
神官衣のフードを目深におろし、影はゆっくりとレミギウスに向き直る。
「──お休みのところ、申し訳ありません。レミギウス司教」
澄んだ青年の声だった。声音は極めて優しいが、それでいて不思議な威厳を感じさせる。
レミギウスは、畏まって一礼をした。メイヤーは傍に控える。
「いえ、まだ眠ってはおりませんでしたから──それより、何かございましたか」
影の主であるコウ司教は、フードで顔を隠したまま、ゆっくりと頷いた。
「ついさきほど、御柱の響きを感じたのです。おそらくは、来訪者の方が参られたものかと」
「……来訪者?」
レミギウスは問い返し、数秒ほども経ってから、大きくその眼を見開かせた。
「来訪者ですと!? 確かなのですか!?」
年甲斐もなく、声が裏返った。コウ司教が、殊更にゆっくりと頷く。
「その可能性が高いかと思われます。ここしばらく、件の幽霊の噂を受けて、注視しておりましたところ──ついさきほど、人には知覚できぬ響きと光が、私達の一族には感じられました」
コウは密談をするように、その声音を低く落とした。
「ですがレミギウス様、落ち着いてくださいませ。貴方にとっては初めてのことでしょうが、これはこの世の理のようなもの──平静に、言い伝えの通りに対処すればよいのです。私も柱守の一族として、そのお手伝いをいたします。ただ──」
「ただ……?」
レミギウスは息を吞んで、次の言葉を待った。傍らのメイヤーは訳がわからない様子だったが、立場上、口を挟むこともできずに押し黙っている。
コウ司教は温和な声で続けた。
「肝心の来訪者の方が今、どこにいるのかがわからないのです。私は異変を感じてすぐに柱の元へ急いだのですが、すでにどなたもおられませんでした。しかし、何者かがいたらしく、ランプと血の跡が残っておりまして」
「血の跡……」
レミギウスは呻いた。
「では、衛兵の誰かが、来訪者に剣を向け……?」
コウは、フードに隠れた頭を小さく左右に振った。
「わかりません。ですが死体もありませんし、おそらくは神殿の中で、迷子になられているのではないかと思うのです。ランプのことはよくわかりませんが、誰かが置き忘れたものか、来訪者の方が持っていたものか──ともあれ、取り急ぎ衛兵のご協力をお願いしたく思います」
コウ司教の依頼に、神師レミギウスは力を込めて頷いた。
「承りました。では、コウ司教はここでお待ちください。見つかり次第、ご連絡いたします」
「よろしく頼みます」
頷くコウに一礼を残して、レミギウスは足早に執務室を出た。
部屋を出るなり、メイヤーが小声に囁く。
「レミギウス様、あの──」
「何も聞かないでください、メイヤー。今の貴方には、まだ詳しくは話せません」
レミギウスは緊張した声でそう告げた。
「神の御心か、それとも気まぐれか……いずれにせよ、これは神殿の機密に関わることなのです。位があがれば、貴方もいずれ、知ることになるかと思います。それまではお待ちなさい」
祖父のかたくなな言葉を受けて、メイヤーは小さく首を縦に振った。
「そう、これは──昔から、稀にあることなのです。とりたてて、騒ぐほどのこともない……」
レミギウスは、自分に言い聞かせるように呟いた。
そして、衛兵達に不審者の〝保護〟を直接命ずるべく、その脚を詰所へと向けた。
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得体の知れない少女を寝台に横たえると、フェリオはまず、彼女の傷口を確かめようとした。ズボンと長袖からなる白い衣服は、しかし腰の部分でも分かれておらず、上下が一つながりになっている。脱がし方もよくわからない。
素材は縮緬に似ていたが、表面は水を弾く性質があるらしく、血があまり染みていなかった。その代わりに、血は服に吸われず外へ流れ、たちまちにシーツを黒く染めていく。どうやら服の中に溜まっていた血が、寝かせたことで外に溢れたらしい。
少女を担いできたフェリオの体にも、その血は付着していた。
少女の両腕には、柱の中で光っていた腕輪がある。間近で見れば、飾り気のない、ごくシンプルな白い腕輪だった。金属のような光沢はあったが、それ単体で光を発しそうには見えない。
施療師を呼びにやらせたエリオットは、まだ来ない。
フェリオは腕輪を気にしながら、部屋に備え付けのランプを一つ取り外し、少女の身を照らした。
仰向けにさせた少女の体に視線を据え、傷のありそうな場所を探す。
一際に血の多い腹部を探ると、その部分で服が薄く切り裂かれているのがわかった。鋭利な刃物で真一文字に裂かれたそこが、出血の元と見て間違いない。
フェリオは服の切れ目に短剣を這わせ、傷を広げないよう、慎重に服だけを裂いた。ランプを傍に置き、布で血の汚れを拭いながら、薄暗い中に傷口を探す。
少女の白い肌は、目を見張るほどに滑らかだった。
──滑らかすぎて、〝傷口〟がまるで見当たらない。
フェリオは眉をひそめた。
他に衣服の裂けている場所がないかと探したが、血の染みからしても、腹部のそこ以外に大きな傷があるとは考えにくかった。しかし、実際の少女の身には傷口らしきものがない。
フェリオは衣服の裂き目をさらに広げて、その肌に眼を凝らした。
脇腹に、かすかに細い古傷の跡はあった。だが、すでに傷口としては塞がって久しいものである。血など出ているはずもない。
首を傾げるフェリオの耳に、廊下側からの足音が聞こえた。
「フェリオ様。施療師のクゥナ様をお連れいたしました」
エリオットの声が響いた。連れられてきたのは、フェリオも顔を知る神殿の施療師である。
フェリオは、すぐに声を返した。
「あぁ、お通ししてくれ」
「はい。クゥナ様、では、こちらへ」
エリオットが寝室の扉を開けるや、施療師の娘が会釈と共に入ってきた。
柔和な微笑を湛えた、人の好さそうな顔立ちの娘である。
身にまとった白く清浄な衣は施療師の仕事着で、神官が着る長衣とは異なっていた。上は長袖だが、腕が動かしやすいよう、肩の部分だけが露出している。下は左右に深く割れたスカートで、動きやすさと清潔感を重視した意匠となっていた。