エリオットは、フェリオの背にしがみついたまま固まっていた。その彼が、不意に耳元で裏返った声をあげる。
「フェリオ様! それは……?」
頭の後ろから現れたエリオットの指が、フェリオの衣服の胸元を差していた。指摘されて視線を転じたフェリオは、そこに白い輝きを見つけ、慌ててその正体を確かめる。
発光していたのは、幼い頃にある友人からもらった、ペンダントの石だった。
初めて眼にする現象に、フェリオも、そしてエリオットも、揃って息を吞んだ。
フェリオが手に摑んだ〝生命の輝石〟は、小さな太陽に似た白い輝きを宿していた。しかしそれでいて、特に熱を発するということもない。
輝石の輝きを受けてか、柱の中の少女が、不意にその身を震わせた。
膝から顔をあげた少女は、フェリオと視線が合うや、その眼を大きく見開かせる。
フェリオも、その顔をはっきりと見た。
紛れもなく、彼女は生きた人間だった。見たことのない娘だったが、歳の頃はフェリオに近く、神や悪魔とおぼしき要素は何もない。身につけた奇妙な衣服が、やや不思議な印象を漂わせていたが、それとて一見して服とわかる品である。
フェリオは、背に震えを感じた。恐れたわけでも、驚いたわけでもない。ただ未知の事態に心が震え、それが体にも伝播した。
フェリオは彼女をじっと見つめた。少女のほうも、大きな眸でフェリオを注視している。
少女はひどく疲れているようで、その双眸はどこかうつろな色を湛えていた。驚きに見開かれたのはほんの一瞬で、今はぼんやりと、フェリオを見つめている。
柱の壁を隔てた二人の間で、〝生命の輝石〟が強く輝いた。
その光を求めるようにして、少女が奥からゆっくりと手を伸ばした。つられてフェリオも、柱の壁に手を添える。
壁の触感が変わっていた。
少女が手を伸ばしたことに反応したのか、硬くフェリオを拒絶していた壁が、ぬるりとフェリオの手を飲み込んだ。淀んだ水に似た感触が、腕の中ほどまでを包みこむ。
フェリオは驚きながらも、そのまま少女に向けて手を伸ばした。
一瞬の間を置いて、その掌に少女の手が重なった。
背後のエリオットが、うろたえてまた悲鳴をあげたが、フェリオはそれを無視して、少女の手を強く摑んだ。柔らかい肌は少し冷たかったが、確かに人の体温を備えている。幽霊などではない。
摑んだ彼女の手を引っ張ると、少女は抵抗もせずに、そのまま柱の外へと抜け出してきた。壁面はあっさりと彼女の身を解放する。
出てきた少女の足取りはひどくふらついており、フェリオは咄嗟に彼女を支える羽目となった。
倒れかかってくる彼女を、体全体で抱きとめた瞬間に──少女の唇が、かすかに動いた。
「──殺さないで──みんなを──」
少女は確かに、消え入りそうな小声でそう言った。
フェリオは訳がわからずに、抱きとめた彼女を揺さぶる。
「おい! 大丈夫か!? しっかり……」
少女は、もう眼を閉じていた。どうやら気絶したらしく、起きる気配はない。
輝石の光は消え、少女の腕輪も光を失い、柱は元の通りの黒く硬い壁面に転じていた。
辺りが静寂に包まれる。祭殿はあくまで暗く、数瞬前に起きた異変の名残をたちまちに消し去っていた。
少女を抱えて揺すったフェリオの腕に、ぬるりと嫌な感触が流れてきた。
その正体に気づいたフェリオは、たちまちに険しく眉をひそめる。
「エリオット! 施療師を呼んでこい! この子は俺の部屋に運ぶ」
「……え? えぇ!?」
いつのまにかまたへたりこんでいたエリオットは、頓狂な声をあげた。
フェリオはいらついて声を張る。
「この子は怪我をしているんだ! 出血が多い。早く手当てしないと……」
フェリオは少女の身を抱え、暗い中に傷口を探しながら言った。
フェリオの手を汚したのは、少女の体から溢れた生温かい血の感触だった。
奇妙な服の脱がし方がわからずに、フェリオは傷口の見当だけをつけて、彼女の身をそっと抱えあげる。傷は腹部のどこからしい。血が溢れ、浅黒く服に染みていた。
ランプの明かりでよくよく見れば、少女の顔や服には、いたるところに返り血らしきものもついている。まるでついさきほどまで、戦場にでもいたかのようだった。
フェリオは、まだ動けずに震えているエリオットを睨みつけた。
「エリオット、座りこんでいないで急いでくれ。施療師を俺の部屋に連れて来い。それから、ここで見たことは他言無用だ。施療師にも俺から話すから、それまでは黙っていろ」
エリオットは無言でこくこく頷くと、ようやく立ちあがり、転げるようにして駆けていった。
フェリオは気絶した少女を慎重に抱え、急ぎ足に歩き出した。
祭殿を出る間際になって、ほんの数瞬、柱を振りかえる。
少女を抱えたために持てなくなったランプが、薄ぼんやりと柱の一角を照らしていた。
腕の中にある彼女を解放した御柱は、まるで何事もなかったかのように、ただの壁へと戻っていた。
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その日、フォルナム神殿の神師レミギウスは、常より少し早めに床につこうとしていた。
もうじき、例年のごとくに聖祭の季節が巡ってくる。ひとたび祭りの準備に入れば、神殿の関係者には眼の回るような忙しい日々が待っていた。レミギウスもゆっくりと休めるのは、あと数日のことである。
神師である彼は、フォルナム神殿における最高位にある。
好々爺然とした穏やかな性質で、神殿の内外を問わず、人々の信望も厚い。神師の職についてから五年が経ち、すでに高齢の身だが、老いてなお矍鑠として日々の執務をこなしていた。
それでもここ数年は、自身の老いを自覚している。執務の疲れがなかなか抜けない。
レミギウスが床に入ってしばらくすると、従者が寝室の扉を叩いた。
「レミギウス様、お休みのところ、失礼をいたします」
女神官の声に、レミギウスは閉じていた瞼を開けた。まだ眠ってはいなかったために、すぐに身を起こす。
「何か、ありましたか」
レミギウスは、穏やかなしわがれ声を扉の向こう側に投げた。
一度は床についた神師をわざわざ起こすというのは、尋常なことでない。
扉越しに、女神官が申し訳なげに応えた。
「たった今、柱守のコウ司教がお見えになりまして、至急、レミギウス様にお会いしたいと──」
レミギウスは眉をひそめた。その名は、この神殿の誰もが知る高位の聖人のものである。役職としてはレミギウスのほうが上だが、実質的には頭のあがらない存在だった。
「コウ司教が……わかりました。すぐに着替えますので、手伝ってください」
レミギウスがベッドから立ちあがるのと同時に、部屋の扉が開いた。入室してきた女神官のメイヤーは、慣れた手つきでてきぱきと、老いた神師の身支度を手伝い始める。
彼女はレミギウスの従者であると同時に、その孫娘でもあった。今年で十七歳になったが、すでに正式の神官として役職を得ている俊才である。その出世の背景には、神師であるレミギウスの影響もあったが、そのことを抜きにしても、彼女は敬虔なフォルナムの神官だった。
きらびやかな金髪を頭の後ろで束ねた少女は、服を着る祖父の髪を器用に櫛で整える。
「メイヤー、コウ司教は、どんなご用向きとおっしゃっていましたか?」
祖父の問いに、メイヤーは利発な眼差しをわずかに曇らせた。