エリオットは緊張の面持ちのまま、ゆっくりと頷いた。
「はい。薄く発光していたようにも思います。とにかく、その、見えてしまったのは確かなので……もういいでしょう、戻りましょう」
フォルナムの教義は、幽霊を否定する。死者の魂は例外なく神の御手によって救われ、この世に残ることはないとしている。
その教義に忠実なはずの少年神官は、しかし怯えの様子を隠そうともしていなかった。教義とは、概ね建前のものである。多感な少年は、ありがたい教えを純粋には信じていないらしい。
教義に無頓着な自分が幽霊を信じず、教義に忠実なはずのエリオットが幽霊に怯えるという現実に、フェリオはどこか滑稽な印象を抱いた。
フェリオは、柱の側面にそっと指を這わせた。
そこはひんやりと冷たく、たちまちに掌の体温を奪われる。
柱の側面を軽く拳で叩いてみると、岩のように硬い感触だけが伝わってきた。神から賜った御柱への無造作な振る舞いに、エリオットが眉をしかめた。
身分の違いに考慮したのか、口では何も言わなかったが、非難の視線に気づいたフェリオは言い訳じみた苦笑を返した。
「何もないか。その幽霊、俺も一度、見てみたいな。悪戯にしても本物にしても」
「私は二度と見たくありません」
強がることもなく、エリオットははっきりと断言した。フェリオは肩をすくめるしかない。
「また深夜にでも来てみるよ、今度は一人で」
「それはやめてください。もしフェリオ様に何かがあったら、世話役の私が責任を取らされ──」
大袈裟に嘆くエリオットの眼が、不意に大きく見開かれた。
その眸に、ランプとはまた違った淡い光が映り込む。
咄嗟に、フェリオは素早く柱を振りかえった。
祭殿に接する、黒い巨大な御柱──
その側面に、ほのかに青白く、柔らかい光が点りつつあった。大きさは人と同じほどで、徐々にその輪郭がはっきりとしてくる。
エリオットが、言葉にならない悲鳴をあげた。
フェリオの眼は、その光景に釘付けとなる。腰を抜かして尻餅をつくエリオットをほうっておき、フェリオは淡い光の側に駆け寄った。
光は、外側から照射されたものではない。明らかに柱の内側から滲んでいる。火の赤い灯りとも、太陽の白い輝きとも異質のものだった。強いていえば、水中から月を見上げたような、そんな淡い光である。
フェリオは、光りつつある場所のすぐ正面に立った。
不思議と恐怖は感じなかった。幽霊を信じていないせいもあるが、何よりもまず、今は初めての事態に心が騒いでいる。全てを見届けたいという思いが先に立ち、逃げることも考えつかなかった。
エリオットが背後で喚く。
「フェ、フェリオ様! 逃げましょう! はやく、はやく!」
その声は気の毒なほどに震えていたが、フェリオは振りかえりもしない。ただ、柱の側面を観察するように見つめ続ける。
光はごく薄いものだった。もしここが暗闇でなければ、見過ごしてしまいそうに弱い。その意味でも、それは月の光に似ていた。
その輪郭が人の姿に近づきつつある。
背後でエリオットが、早口に神の御名を唱え始めた。
そこにうっすらと浮かび上がってきたのは、一人の少女の姿だった。
フェリオは、じっと彼女を見つめた。
背を丸めて膝を抱え、眠っているように見える。服装や表情ははっきりとしないが、まるで水中にいるかのように、長く艶やかな黒髪がゆったりと周囲に広がっていた。
淡い光は、彼女の手元から漏れている。両腕に嵌た飾り気のない白い腕輪が、ほのかに発光しているのだった。
柱の内側に浮かび上がったその姿は、彫像を思わせる整ったもので、少なくとも幽霊のようには見えない。
黒いはずの柱が、その部分だけ半透明の水に転じたような錯覚を覚えて、フェリオはつい、反射的に手を伸ばした。しかし触れた側面は、氷のように冷たく硬いままで、さきほどまでと何も変わっていない。
体を丸めたその少女の姿に、エリオットが震える声をあげた。
「……あ、あれ……? さっき、見たのと違うような……」
その言葉を聞き流して、フェリオは両手を柱に添え、中に向けて声を張った。
「おい! 君!」
間近で見ると、彼女は生きた人間としか見えなかった。呼びかけながら、フェリオは片手で派手に柱を叩いた。手に拳をつくり、扉を叩くようにして中に呼びかける。
腰を抜かしていたエリオットが慌てて立ち上がり、その背に飛びついた。
「フェ、フェリオ様! 御柱に対して、そのような──!」
軽く叩く程度とはわけが違う。かつてあった戦乱の折には、争いの原因ともなった御柱を壊そうと、剣や槌で激しい攻撃を加えた者達もいた。それらの攻撃は、しかし強固な御柱にはかすり傷さえもつけられなかったが、冒瀆的な行為には違いない。
しかし、幼い頃から剣術で鍛えたフェリオに対して、制止する側のエリオットは非力に過ぎた。背中から押さえはしたものの、その動きを止めるには至らない。
フェリオは構わず、巨大な柱の側面を叩き続ける。
フェリオの眼にはその時、その少女が、まるで柱に囚われているかのように見えていた。
何故そんなふうに思ったのかは、フェリオ自身にもよくわからない。しかし、目の前にいる彼女がおそらくは生きていて、そして自由とはいえない環境にあることは明らかだった。
「よく見ろ、エリオット。この子、幽霊じゃなくて人間だ。この中にいるんだよ」
「そんな馬鹿な! 御柱の中に、人などいるはずが──だいたい、入り口もないのに──」
エリオットは否定したが、その視線は動揺のために揺れていた。
フェリオは、一際に強く柱を叩いた。
「聞こえていたら、返事をしてくれ。君は何者だ。何故、そんなところにいる?」
少女は反応を示さない。フェリオの肩口から、エリオットも恐る恐ると彼女を覗いていた。
「フェリオ様、聞こえていませんよ。こ、ここは諦めて──」
「エリオットは、この状況が気にならないのか? こんなにはっきりと見えているのに」
フェリオは心持ち厳しい声を張った。エリオットは、苦しげに眉をしかめる。
「しかし、これではどうにも──それに、もし何か危険があったら──」
困惑のために歯切れの悪い口調で、エリオットはそう呟いた。
そんな彼の制止を振りきり、フェリオは柱の中に向け、重ねて声を張った。
「おい! 聞こえないのか!」
抱えた膝に顔をうずめた少女は、やはり少しも反応しない。
淡く光る彼女の腕輪は、壁一枚を隔てたすぐ目の前にあった。ぼんやりとした光は、だんだんと強さを増しつつあり、姿をより鮮やかに浮かび上がらせる。
そしてフェリオは、彼女が身に着けた衣服の奇抜さに気づいた。
細いながらも柔らかい曲線の目立つ体型は、明らかに娘のそれだった。しかし、彼女は男がはくような長ズボンに、飾り気のない長袖のシャツを着ていた。裾にも袖にもまるでだぶつきがなく、きつく仕立てたように体に馴染んでいる。シルエットだけを見れば、裸かと錯覚してしまいそうな姿だったが、実際に肌が露出しているのは、わずかに顔と手の部分だけだった。
どんな布でどんな仕立て方をすればそんな服になるのか、フェリオには想像がつかない。