「それはフェリオ様の誤解です。フォルナムの教義では、死者の魂はすべて冥界に逝き、この世には決して残らぬことになっています。幽霊を許容するのは、西のキャルニエ神殿の教義ですよ。それに幽霊退治などというのは伝承の中のお話で、実際には──」
その言い訳に、フェリオは呆れた。
「だったらなおさらだ。幽霊じゃなくて、しかも君の見間違いじゃないとなれば、誰かの悪戯って可能性が高い。神殿でそんな悪戯をはたらく不心得者を、君はほうっておくのか?」
エリオットの眼が、動揺でわずかに揺れた。
「そ、それは──しかし……」
少年神官を言い負かしたフェリオは、剣の柄に触れながら、小声に呟いた。
「俺達で調べてみよう。それで原因がわからなかったら、上の人達に任せればいい。どうせ何もしないだろうけど」
幽霊を認めない神殿での幽霊騒動に、上層部は反応を示していない。〝風紀の乱れる妙な噂〟には腹を立てているだろうが、これといって実害があったわけでもないのだ。
石造りの廊下を、フェリオは足早に歩いていった。柱に面した件の祭殿は、ここからいくつかの階段を登った上の階にある。
エリオットはようやく観念したように、フェリオと歩幅を合わせた。
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フェリオ・アルセイフにとって、フォルナム神殿での生活は、平穏で満足のいくものだった。とりたてて楽しみこそないものの、王宮よりは居心地がよく、またここには妙な謀略の匂いも少ない。
この神殿内におけるフェリオの仕事は、ただ〝いること〟だけである。その立場も、他の信徒や司祭達とは異なり、あくまで「王家の人間」としてのもので、そのために教義の決まりや礼拝を強要されることもない。
アルセイフの王家と、その領内において独立と自治を保障されたフォルナム神殿──
この両者が友好関係にある証として、神殿内には王家の血縁者が、長期にわたって滞在する慣例があった。過去には、神殿内の動きを警戒し監視するという目的もあったのだが、長い友好の歴史によって、その目的は有名無実のものとなっている。
一ヶ月前、フェリオは亡くなった遠戚に代わってこの親善特使に就任し、それに伴って、神殿側からは世話役にとエリオットが付けられた。
王族とはいえ、フェリオは妾腹の第四王子という身の上で、その社会的な地位は兄達よりも低い。神殿に滞在する親善特使の任は、それゆえにあてがわれた閑職だったが、どうせ王宮にいてもすることのない身である。不満に思う理由もない。
人はこの任を〝左遷〟と見るが、フェリオにしてみれば、王宮という獄から、一時的にせよ逃れられた解放感を感じていた。
そしてこの一ヶ月、フェリオはたまに神殿内での会議に招かれつつも、王宮にいた頃とさして変わらない、退屈で平穏な毎日を過ごしている。違うのは、王宮よりも、フェリオに対して友好的な人間が多いことくらいだった。
そんな日々に舞いこんできた幽霊の噂と、それを裏付けた今夜のエリオットは、平穏な日常にちょっとした違和感をもたらした。
二人は今、神殿の居住区画を抜けて、〝御柱〟に通じる祭殿前に立っていた。
目の前には、鉄拵えの頑強な扉がある。鉄扉は固く閉ざされていたが、脇には日頃の出入りに使う小さな潜り戸も設けられており、こちらは鍵もかかっていない。
一般人がこの祭殿に立ち入ることはまずないが、神殿に属する者であれば、たとえ見習い神官でも自由に出入りができる場所である。暇を見てはここに来て、個人的な祈りを捧げる者も多いと聞く。
今回の幽霊騒ぎは、深夜に祈りに来た、そうした者達の間から生まれたものだった。
三つ年下の世話役に向けて、フェリオは目配せをした。その手は早くも、腰に差した細剣の柄にかかっている。もし幽霊騒ぎが誰かの悪戯とすれば、中にまだ何者かが潜んでいてもおかしくはない。
エリオットは露骨に嫌そうな顔を見せつつ、一応は頷いて、鉄扉の脇の潜り戸をあけた。
「──先に行ったほうがいいですか?」
エリオットが怯えた声で問う。フェリオは首を横に振った。
「いや、俺の後から来い。背中側に気を配っていてくれ」
怯える彼に先を歩かせるのは、さすがに良心が咎めた。エリオットは神妙に無言で頷いたが、その顔は明らかにほっとしている。
フェリオは先に身を屈め、ほとんど四つん這いに近い状態となって、狭すぎる扉を抜けた。
祭殿は、神殿の四階に位置していた。
石造りの壁と床は年季こそ入っていたが、特別な部屋だけに清潔に磨き上げられている。
廊下と違って窓はなく、室内は漆黒の闇に閉ざされていた。祭殿として使用する際には、至るところにある燭台に灯りが点されるが、今は無人ゆえにその火もない。
フェリオはランプを片手に、その奥へと踏み込んでいった。
こつこつと甲高い靴音が反響し、二人以上の人間がそこにいるかのような錯覚をもたらす。
エリオットはぴたりとフェリオの背後につき、恐々と周囲の様子に神経を尖らせていた。
祭殿の先には、〝御柱〟がある。
神殿の中核を為すそれは、神がもたらしたといわれる品だった。
ランプを掲げたフェリオの視界に、その一部が入る。
祭殿の正面を占める、滑らかな曲線を描いた黒い壁──それは、柱の側面のごく一部分だった。
フォルナム神殿の象徴たる御柱とは、およそ百メートルの直径をもちながら宙に浮く、巨大な円柱だった。フォルナム神殿はその柱を囲んで造営されており、そしてこの祭殿は、その神聖な柱に手を触れるためだけに造られた部屋である。
フェリオは祭殿から、その威容の一部を横目に眺めた。
柱に近づいてランプを掲げると、黒光りするその肌には、フェリオの顔が薄く映りこんだ。
神殿の伝承によれば、その柱は人が現れる以前から、この地に存在していたらしい。
人々の手がこの柱に触れられたのは、建築技術が発展し、建物がこの高さに及んだ数世紀前のことである。それまで御柱は、ずっとこの地に浮いて微動だにせず、下に住む人々を見下ろしていた。
この柱がいつできたのか。何者かの手による建築物なのか、自然の一部として成り立ったものなのか、あるいはそれこそ、神の御業なのか──誰も真相を知る者はいない。
大陸には、これと似た柱が、合わせて五本あった。東西南北と中央にそれぞれ一本ずつが浮いており、その周囲にはこうした神殿が同じように建てられている。
有史以来、人々の畏敬を集めつつ、時に乱の原因ともなってきた〝御柱〟──
フェリオはその柱の一部を指差しながら、エリオットを振りかえった。
「幽霊を見たのは、このあたりか?」
エリオットは、大きく首を縦に振った。
「はい。ちょうどそのあたりです。私はこの祭殿の中央付近にいたのですが、そこから柱を振り返ったところ、そこに女の姿が……」
語るエリオットの表情は、恐怖のためか硬直していた。
フェリオには、まだ信じられない。
「こんな真っ暗なところで、本当にそんなものが見えたのか?」
仮にランプの灯がなければ、そこは漆黒の闇である。