一.御柱ノ少女 ①

 その年、夏のせいさいを間近に控えたフォルナム神殿には、奇妙なうわさが流れていた。

 真実かいなかを別として、人の口にのぼる噂には、大別して二種がある。

 真実味のあるおくそくなどを母とする、世間話のような噂。

 とつぴようもないうそや、あるいは単に話をおもしろがるための噂──

 前者は時に真実に通じ、また時に誤報でもある。後者はまず十中八九がきよだが、ごくまれにある種の真実を内包していることもある。

 この夏、フォルナム神殿に流れつつあった噂は、後者に属する質のものだった。


〝深夜をまわるころ、『御柱ピラー』の一部に、若い女の姿が浮く──〟


おれゆうれい話なんて信じない」


 フェリオ・アルセイフは、その噂を一笑に付した。

 湯上がりに、ふかむらさき色の髪をタオルできながら、その噂をもってきたお付きの少年しんかんに苦笑を向ける。

 神官のエリオットは、しかし身を乗り出して声をしぼった。


「フェリオ様! それが本当だったのです。私も見たのですよ、たった今──」


 エリオットの顔色は、そうはくに転じていた。走ってきたために呼吸は荒く、どこかおどおどとして落ち着かない。

 フェリオは居間の椅子に腰を下ろし、エリオットにも座るよう、視線ですすめた。


「ひとまず落ち着けよ、エリオット。何があった?」


 フェリオは首をかしげながら、少年に話の続きをうながした。

 エリオットが善良であり、そして善良な人間の多分にれずいたって気が弱いことは、フェリオもよく知っていた。しかし、それにしてもおびえ方がじんじようでない。

 エリオットは、テーブルをはさんだ向かいに腰を下ろしながら、その肩をぶるりと震わせた。


「た、たった今──その、祭殿の掃除をした後で、帰りぎわに私がたまたま一人になりまして……なにやらさむを覚えて振りかえりましたら、あの御柱ピラーの表面に、女が一人──」


 ぽつぽつと言葉を詰まらせながら、エリオットはそう語った。


「自分の姿が、柱の表面に反射して映っただけじゃないのか?」


 少年の女のような顔をちやしてそう言うと、エリオットは必死で首を横に振った。


「いえ、間違いありません。顔は見えませんでしたが、髪の短い女でした。私はがよいのですよ。自分の姿と見間違えるなどということは、絶対にあり得ません」


 少年はぶるぶると震えながら、指をいのりの形に組んだ。

 フェリオの世話役をつとめるエリオット・レイヴンは、まだじやつかん十三歳の子供だった。十六歳のフェリオから見れば、どこか弟のような印象がある。

 彼は、生まれてからずっとこの神殿で暮らしてきたきつすいしんかんであり、いってみればここは彼の家のようなものだった。そんなエリオットが、神殿内のことでこうまでおびえる姿は、どこかこつけいにも見える。

 フェリオは、それこそ弟をなだめるようにつぶやいた。


「でもゆうれいなら、出るのは深夜なんだろう。まだよいの口だ」


 外はもうすっかり暗いが、しんこうにはまだ間がある。

 フェリオにしても、部屋に備え付けのから、さきほどあがったばかりだった。湯上がりでさっぱりとくつろいでいたところに、いきなりエリオットが飛びこんできて、〝幽霊を見た〟と騒ぎだしたのである。

 エリオットは、しきりに浮くあせぬぐいながら呟いた。


「きっと、出る時間を変えたんです。とにかく、あんなにはっきりと見えるなんて──」

「生活の不規則な幽霊なんだな」


 フェリオの下手へたじようだんに、エリオットは笑わなかった。


「フェリオ様は、見ていないからそんなことが言えるのです! 本当に恐ろしかったのですよ!」


 怒ったように言い、フェリオをうらめしげににらんだ。そんな態度に、フェリオは苦笑するしかない。


「ごめん、ごめん。確かにおれは、それを見ていない」


 フェリオは素直に謝った。

 ここ数日、うわさの幽霊は、祭殿の柱に面した至るところでもくげきされていると聞く。そろそろ神殿の上層部でも〝ただの噂〟とはもくさつしにくい状況になりつつある。

 フェリオ自身も、ほつたんはただの見間違いで、それをおもしろがっただれかが、ひれびれそうさくしているのだろうと思っていた。

 しかしエリオットは、気が小さいながら、うそをつくような人間ではない。その彼がこうも怯えて〝幽霊を見た〟ということに、フェリオは多少の興味を覚えた。

 よし、と、うなずいて、フェリオは椅子から立ち上がった。


「じゃ、見物に行ってみようか。エリオット、案内を頼む」


 剣を取りながら軽い調子でそう告げたたんに、エリオットはいた。まだあどけなさを残した顔に、ろうばいの様子が色濃く表れる。


「フェリオ様! それはいけません、だめです!」


 予想していた通りの反応だったが、フェリオはとぼけて見せた。


「どうしてだ?」

「決まっているでしょう。こわいからです。戻りたくありません」


 素直に怖がる少年に、フェリオは苦笑を送った。


「でも、しようたいがわからないままっていうのは、すっきりしないんじゃないかな?」

「正体ならわかっています。ゆうれいです。間違いありません」


 エリオットは意外ながんさを見せた。


「だって、御柱ピラーの中にいたのですよ? 御柱ピラーの内側に──」

「それなら、幽霊なんかじゃなくて、女神様のこうりんかもしれない」


 フェリオはごとのつもりで言ったが、エリオットはがおで首を横に振った。


「地の神フォルナム様は、風の神キャルニエ様と同じく人の姿を持ちませんし、しんする際には樹木の姿を取られるとされています。それに、あの不気味な影──断じて女神様などではありません。が女神様なら、我々はじやきようということになります」

「……不気味な影、ねぇ」


 エリオットのおおな物言いは、フェリオにはまゆつばな話に感じられた。初めから幽霊と決めてかかれば、少女の笑顔も悪魔のちようしように見えるかもしれない。それどころか、先入観は壁のみさえ幽霊にする。


「とにかく見に行こう。君の見間違いか、そうじゃないのか、おれも確かめたい」


 フェリオはを言わさず、先に立って歩き始めた。

 エリオットはまだ震えながらも、しぶしぶ、その後についてくる。

 二人は部屋を出て、石造りの廊下を歩き出した。廊下は三人ほどが並んで歩ける程度の幅があり、天井も高い。

 通路の至るところには硝子ガラス窓があり、星と月の明かりを取りこんでいた。ただ、今夜の空には雲が多く、廊下はいつもより薄暗い。

 不気味ともいえるその暗がりの中、ランプを片手に、フェリオは祭殿のある方角へと歩いて行く。

 フェリオの部屋から祭殿までは、歩いて数分ほどの距離がある。神の奇跡を体現する〝御柱ピラー〟は巨大で、柱を囲むように造られた神殿もまた、一つの城に匹敵する大きさを有していた。

 歩きながらもエリオットは、わきでしきりに不安がっていた。フェリオはその肩を軽くたたく。


「そんなにびくびくするな。まだ、幽霊に襲われたって人はいないんだろう?」

「はぁ……私達が、その記念すべき最初のせいしやにならなければいいのですが……」


 エリオットは胸の前で、いのりの形に指を組んだ。フェリオは笑う。


「神のしんがそんなことでどうする。幽霊退たいは君らの仕事だろうに」


 そう言うと、エリオットは不満げにくちびるとがらせた。

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