その年、夏の聖祭を間近に控えたフォルナム神殿には、奇妙な噂が流れていた。
真実か否かを別として、人の口にのぼる噂には、大別して二種がある。
真実味のある憶測などを母とする、世間話のような噂。
突拍子もない噓や、あるいは単に話をおもしろがるための噂──
前者は時に真実に通じ、また時に誤報でもある。後者はまず十中八九が虚偽だが、ごく稀にある種の真実を内包していることもある。
この夏、フォルナム神殿に流れつつあった噂は、後者に属する質のものだった。
〝深夜をまわる頃、『御柱』の一部に、若い女の姿が浮く──〟
「俺は幽霊話なんて信じない」
フェリオ・アルセイフは、その噂を一笑に付した。
湯上がりに、深紫色の髪をタオルで拭きながら、その噂をもってきたお付きの少年神官に苦笑を向ける。
神官のエリオットは、しかし身を乗り出して声を絞った。
「フェリオ様! それが本当だったのです。私も見たのですよ、たった今──」
エリオットの顔色は、蒼白に転じていた。走ってきたために呼吸は荒く、どこかおどおどとして落ち着かない。
フェリオは居間の椅子に腰を下ろし、エリオットにも座るよう、視線で勧めた。
「ひとまず落ち着けよ、エリオット。何があった?」
フェリオは首を傾げながら、少年に話の続きを促した。
エリオットが善良であり、そして善良な人間の多分に漏れずいたって気が弱いことは、フェリオもよく知っていた。しかし、それにしても怯え方が尋常でない。
エリオットは、テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろしながら、その肩をぶるりと震わせた。
「た、たった今──その、祭殿の掃除をした後で、帰り際に私がたまたま一人になりまして……なにやら寒気を覚えて振りかえりましたら、あの御柱の表面に、女が一人──」
ぽつぽつと言葉を詰まらせながら、エリオットはそう語った。
「自分の姿が、柱の表面に反射して映っただけじゃないのか?」
少年の女のような顔を茶化してそう言うと、エリオットは必死で首を横に振った。
「いえ、間違いありません。顔は見えませんでしたが、髪の短い女でした。私は眼がよいのですよ。自分の姿と見間違えるなどということは、絶対にあり得ません」
少年はぶるぶると震えながら、指を祈りの形に組んだ。
フェリオの世話役を務めるエリオット・レイヴンは、まだ弱冠十三歳の子供だった。十六歳のフェリオから見れば、どこか弟のような印象がある。
彼は、生まれてからずっとこの神殿で暮らしてきた生粋の神官であり、いってみればここは彼の家のようなものだった。そんなエリオットが、神殿内のことでこうまで怯える姿は、どこか滑稽にも見える。
フェリオは、それこそ弟をなだめるように呟いた。
「でも幽霊なら、出るのは深夜なんだろう。まだ宵の口だ」
外はもうすっかり暗いが、深更にはまだ間がある。
フェリオにしても、部屋に備え付けの風呂から、さきほどあがったばかりだった。湯上がりでさっぱりとくつろいでいたところに、いきなりエリオットが飛びこんできて、〝幽霊を見た〟と騒ぎだしたのである。
エリオットは、しきりに浮く冷や汗を拭いながら呟いた。
「きっと、出る時間を変えたんです。とにかく、あんなにはっきりと見えるなんて──」
「生活の不規則な幽霊なんだな」
フェリオの下手な冗談に、エリオットは笑わなかった。
「フェリオ様は、見ていないからそんなことが言えるのです! 本当に恐ろしかったのですよ!」
怒ったように言い、フェリオを恨めしげに睨んだ。そんな態度に、フェリオは苦笑するしかない。
「ごめん、ごめん。確かに俺は、それを見ていない」
フェリオは素直に謝った。
ここ数日、噂の幽霊は、祭殿の柱に面した至るところで目撃されていると聞く。そろそろ神殿の上層部でも〝ただの噂〟とは黙殺しにくい状況になりつつある。
フェリオ自身も、発端はただの見間違いで、それをおもしろがった誰かが、尾鰭と背鰭を創作しているのだろうと思っていた。
しかしエリオットは、気が小さいながら、噓をつくような人間ではない。その彼がこうも怯えて〝幽霊を見た〟ということに、フェリオは多少の興味を覚えた。
よし、と、頷いて、フェリオは椅子から立ち上がった。
「じゃ、見物に行ってみようか。エリオット、案内を頼む」
剣を取りながら軽い調子でそう告げた途端に、エリオットは眼を剝いた。まだあどけなさを残した顔に、狼狽の様子が色濃く表れる。
「フェリオ様! それはいけません、だめです!」
予想していた通りの反応だったが、フェリオはとぼけて見せた。
「どうしてだ?」
「決まっているでしょう。怖いからです。戻りたくありません」
素直に怖がる少年に、フェリオは苦笑を送った。
「でも、正体がわからないままっていうのは、すっきりしないんじゃないかな?」
「正体ならわかっています。幽霊です。間違いありません」
エリオットは意外な頑固さを見せた。
「だって、御柱の中にいたのですよ? あの、御柱の内側に──」
「それなら、幽霊なんかじゃなくて、女神様の降臨かもしれない」
フェリオは戯れ言のつもりで言ったが、エリオットは真顔で首を横に振った。
「地の神フォルナム様は、風の神キャルニエ様と同じく人の姿を持ちませんし、化身する際には樹木の姿を取られるとされています。それに、あの不気味な影──断じて女神様などではありません。あれが女神様なら、我々は邪教の徒ということになります」
「……不気味な影、ねぇ」
エリオットの大袈裟な物言いは、フェリオには眉唾な話に感じられた。初めから幽霊と決めてかかれば、少女の笑顔も悪魔の嘲笑に見えるかもしれない。それどころか、先入観は壁の染みさえ幽霊にする。
「とにかく見に行こう。君の見間違いか、そうじゃないのか、俺も確かめたい」
フェリオは有無を言わさず、先に立って歩き始めた。
エリオットはまだ震えながらも、渋々、その後についてくる。
二人は部屋を出て、石造りの廊下を歩き出した。廊下は三人ほどが並んで歩ける程度の幅があり、天井も高い。
通路の至るところには硝子窓があり、星と月の明かりを取りこんでいた。ただ、今夜の空には雲が多く、廊下はいつもより薄暗い。
不気味ともいえるその暗がりの中、ランプを片手に、フェリオは祭殿のある方角へと歩いて行く。
フェリオの部屋から祭殿までは、歩いて数分ほどの距離がある。神の奇跡を体現する〝御柱〟は巨大で、柱を囲むように造られた神殿もまた、一つの城に匹敵する大きさを有していた。
歩きながらもエリオットは、脇でしきりに不安がっていた。フェリオはその肩を軽く叩く。
「そんなにびくびくするな。まだ、幽霊に襲われたって人はいないんだろう?」
「はぁ……私達が、その記念すべき最初の犠牲者にならなければいいのですが……」
エリオットは胸の前で、祈りの形に指を組んだ。フェリオは笑う。
「神の信徒がそんなことでどうする。幽霊退治は君らの仕事だろうに」
そう言うと、エリオットは不満げに唇を尖らせた。