あれから、七百年と半分が過ぎた。
◇
朧はもちろん猫で、牡で、おいぼれで、最後のスカイウォーカーだった。がりがりに瘦せているくせにどうしようもないくらい食い意地が汚くて、灰色の毛並みは使い古しの歯ブラシみたいにぼさぼさで、背中にはどでかいハゲがあった。
たとえ背中にどでかいハゲがあろうとも朧はスカイウォーカーであり、スカイウォーカーであるからには朧は用心深い奴だった。とりわけ、ただひとり生き残った最後のスカイウォーカーである朧は、実に慎重な手を打ったのだ。
自分がいつ、どこで、どんなふうにくたばってもいいように。
大昔から受け継がれてきた研究が、自分の代で途絶えてしまうことがないように。
いつの日か必ず現れるはずの、まだ見ぬ三十七番目のスカイウォーカーのために。
ところが、晩年の朧が相棒としていたロボットはたいそう頭が悪かった。当初、己の研究のすべてをロボットに語って聞かせようとした朧だったが、そんなにたくさん憶えきれないようとロボットは泣いた。やむなく次善の策が取られた。ロボットに憶えさせるのではなく、ロボットに書き残させることにしたのである。記録用紙にはスケッチブックが、筆記用具にはクレヨンが使われた。お前もうちょっとましな字は書けんのかと朧が文句を言えば、こんなにたくさん書いたら緑のクレヨンがぜんぶなくなっちゃうとロボットは文句を言った。
幾本ものクレヨンと、長い長い時間を費やして、朧はついにすべてを語り尽くした。
書き取ったページはスケッチブックから切り離され、大きな陶器の瓶に詰められた。
瓶を水銀で満たし、コルクの栓をして、ようやく作業は終わった。
──その瓶をどこかに隠してこい。
朧は、ロボットにそう命じた。
どこでもいいの、とロボットは尋ね、絶対に見つからんようなところならどこでもよいと朧は答えた。生意気にもロボットは矛盾を感じた。朧の言っていることはおかしい。ロボットだってこの瓶の目的くらいはちゃんと理解している。三十七番目の誰かに見つけてもらうために隠すのだ。なのに、絶対に見つけられないところに隠したら、絶対に見つけられなくなってしまう。
ロボットがそのことを指摘すると、かまわんからそうしろ、と朧は言う。
ロボットは、朧がこの瓶をどうして欲しいと言っているのかよくわからなくなってきた。
──えっと、だったら、隠す場所は朧が決めて。
──それはできん。瓶のありかはわしにも知らせてはならん。
──どうして?
──その瓶が、誰にも絶対に見つからんようにするためだ。
ロボットはすっかりわけがわからなくなってしまった。顔をしかめて考え込むロボットを面白そうに見つめ、朧は尻尾をやさしく揺り動かしながら、こう言った。
──余計な心配はせんでよいから、ここなら誰にも絶対に見つからんと思う場所に隠してしまえ。お前がどこにどう隠そうとも、三十七番は必ずやその瓶を見つけ出す。見つけられん奴には永久に見つけられん。よいか、
ロボットはみなまで聞かず、よおしそれじゃあ気門から宇宙に投げちゃうからね、と凄んでみせた。朧が自分の知恵を侮っていると思って腹を立てたのだ。が、朧は少しも動じることなく、好きにしろと答えた。違いない。スカイウォーカーの夢は、たかがロボットの投げたごときでどうにかできるほど安くはないのだから。しかし、そっけないそのひと言にロボットはますます頭にきた。半ば本気で瓶を宇宙に捨ててしまうつもりになって、ロボットは瓶をいつものリュックサックに押し込み、朧のねぐらを走り出た。
走り出たところで振り返り、あかんべえをした。
気をつけてな──と朧は言った。
すべてを語り尽くし、老いさらばえた身体から何かが抜け落ちた、透明な表情をしていた。
それが、ロボットの見た、最後のスカイウォーカーの最後の姿だ。
危険すぎて、ねぐらにはもう二度と戻れなかった。
朧は、大集会の放ったソウルセイバーの宣教部隊に殺された。
◇
トルクは、夜と霧と黴の世界だ。
大集会の長老たちに言わせれば、トルクは、大昔に天使たちの手で築かれた石造りの城であり、宇宙に浮かぶ島である。
お説ごもっとも。
なるほど、トルクは確かに、宇宙を漂う巨大な円筒形の構造物である。変化に乏しいぶっきらぼうなその外壁は「街を取り囲む城壁」と通じるものがあるし、その外壁のいたるところをぶち破ってブロッコリーのようにもこもこと飛び出している酸素黴の大木も、「島を覆う森」だと言われればそんなふうにも見える。外壁には扉も窓もほとんどなく、星の光が内部を照らすこともなく、トルクはその円筒形の巨体に宇宙と同じ色の夜をいっぱいに詰め込んで、空き缶が斜面を転がるような具合に回転し続けている。
一見したところ、トルクは全体がひとつのかたまりとして回転しているように見える。が、それは質量の比からすれば八割がたの正解で、実際のトルクは飽くなき回転を続ける巨大な「外殻」と、その回転から切り離されている「中心柱」というふたつの部分から成る。
展望台は、その中心柱のてっぺんにある大きな球形の部屋だ。
閉ざされた夜の世界であるトルクの中にあって、数少ない、窓のある場所のひとつだ。
ならば見晴らしもいいのかと言えばそれは場合によりけりで、ここから見える景色は数時間の周期で天と地ほども変わってしまう。展望台の半分は中心柱の外部に張り出しており、蜂の巣状のフレームに切り分けられた一面の窓になっている。しかし、今この瞬間、展望台の窓から外を眺めても、そこにあるのは底抜けの闇ばかりだ。面白いものは何も見えない。
トルクの中心柱は回転していない。ということは、この展望台もまた、常に無重力の只中にある。が、ここにないのは重力くらいのもので、外殻の回転によって発生する中心柱内部の気流の余波がこの球形の空間に行き着いて大きく淀むため、闇と霧の中をさ迷う様々な漂流物は自然とこの展望台に集まってくる。加えて、壁面には黴の菌糸が獰猛に生い茂り、空気中の微細な塵を核にして成長する黴玉が無数に漂い、そこかしこに発光細菌のコロニーがあったりして、展望台の夜に頼りない緑色の光を灯していたりする。
暗く、物音ひとつせず、猫の子一匹いない。
そんな展望台のちょうど真ん中のあたり、時速1センチくらいの速度でぼんやりと渦を巻く漂流物の群れの中に、ぴったりとフタの閉ざされたダンボールの箱がある。
ずいぶんとくたびれた感じの、1立方メートルくらいの大きさの、抗菌コーティングのすり切れたダンボールの箱だ。
箱には、「ひろってください」と書いてある。
赤のクレヨンで書かれたと思しき、大きくて下手くそな文字。
その箱の中には、女の子が入っている。
ごわごわでだぶだぶの、赤いツナギの作業服を着ている。一流メーカー品のレプリカの、ぶ厚くて重そうなスニーカーを履いている。狭苦しいダンボール箱の中で、小さな身体ぜんぶを使ってリュックサックを抱きしめてうつむき、身動きひとつしない。
彼女の名前は「クリスマス」である。
間違いない。その証拠に、彼女の額のマーキングにちゃんとそう書いてある。額のマーキングにはさらに、彼女が『甲賀組』製のロボットであることも、初起動が西暦二一八四年の十二月であることも明記されている。
そのマーキングを別にすれば、クリスマスはどこからどう見ても、ことによるとまだサンタクロースの存在を信じているかもしれない年頃の、人間の女の子のように見える。すぐ怒るくせにすぐ泣きそうな目をしている。怒っても泣いてもドラキュラのように目立つ大きな八重歯をしている。ランダム制御の神様は右の目尻にホクロをくれた。もともと深い鳶色をしていた髪は、色素の酸化が進んですっかり白っぽくなってしまったけれど、これはこれで似合っていると言えなくもない。身動きのひとつもしないのは人間らしくないというケチのつけ方もあるが、それはクリスマスが全身の機能のほとんどすべてを冬眠させているからだ。その気になればクリスマスは、くしゃみもあくびも瞬きも貧乏揺すりも、特に意識することもなしにやってのける。