ぷろろーぐ ②

 とはいえ、彼女が初起動したあの十二月はもはや、ロボットであるクリスマスにとっても決して近い過去ではなくなってしまった。この箱の中に身をひそめるずっと以前から、クリスマスは右足の指をほとんど動かすことができなくなっていたし、左腕のいくつかの筋肉は信号に対する反応が微妙に遅れるようになっていた。記憶まわりの障害も昔からで、クリスマスは新しいことをおぼえたり何かを思い出したりすることが苦手である。ロボットのくせに何かと忘れっぽいし、昔のことなど何も憶えていない。思い出をたどって自分が生まれたころのことを思い出そうとしても、すべてはトルクの闇と霧に巻かれてしまう。ただ、本当に色々なことがあったというぼんやりとした印象だけがある。ずいぶん歩いたし、たくさんしやべったし、いつもいつも笑っていたような気がする。

 そんなクリスマスが唯一はっきりと憶えているのは、死んだおぼろのことだ。

 朧に託された瓶のことも、この箱に身をひそめるまでの経緯も、箱の中でゆっくりと変化していった自分の気持ちについても、クリスマスははっきりと憶えている。


 絶対に見つからないようなところに瓶を隠せ、と朧は言った。

 絶対に見つからない隠し場所が思いつかなかったときにはどうすればいいのか、朧は何も言ってはくれなかった。

 仕事はいつだってきちんとやってきたし、瓶を隠すのは朧が自分にくれた最後の仕事だ。きちんとやらなければいけないと思った。どこに隠せば絶対に見つからないか、クリスマスだっていつしようけんめい考えたのである。しかし、どうしても思いつかなかった。どこにどんなふうに隠しても、結局いつかはだれかに見つかってしまうような気がする。

 結局、考えあぐねた末にクリスマスが思いついた最も確実な方法は、どこか適当な場所に、自分が瓶と一緒に隠れ続けることだった。

 これなら、自分が見つからないうちは瓶も見つからない。もし誰かに見つかりそうになったら逃げてしまえばいい。さらに、三十七番目の誰かだけにはすぐにそれとわかるように、隠れる場所には目印として何か書いておく。大丈夫、トルクの猫の中に字が読めるやつなんかめつにいない。でも、朧は読めた。朧はスカイウォーカーだったから。ということはつまり、三十七番目の誰かもきっと読めるはずである。

 これはすごいアイデアだとクリスマスは思った。

 せんぷく先は、トルクちゆうしんちゆうの展望台に決めた。漂流物の中にダンボールの箱があったのでその中に隠れることにして、一番のお気に入りの、まだ先がとがった赤のクレヨンで「ひろってください」と書いた。いくらトルクの猫は字が読めないといっても、あまりはっきりしたことは書かない方がいいと思ったのである。

 そして、瓶の入ったリュックサックを胸に抱きしめて、クリスマスは隠れ始めた。


 最初の十年は、やる気満々だった。何か物音がするたびに冬眠を解除して、期待に満ちた顔で箱の取っ手の穴から外をのぞいた。その期待はいつも裏切られてばかりだったけれど、クリスマスは決してへこたれなかった。ときどき、リュックサックから瓶を取り出して眺めたり、ネズミがネズミ車を回すようにダンボール箱をぐるぐる回して遊んだりもした。今日こそは、今日こそは三十七番目のだれかが現れるに違いない──毎日そう思っていた。


 次の十年は、反省の十年だった。三十七番目の誰かが捜しに来ないのは、きっと自分の心がけが悪かったせいなのだとクリスマスは思った。ただで捜しに来てもらおうなんて虫のいい考えだったのだ。何かお礼を考えておかなければいけなかったのだ。三十七番目の誰かが捜しに来てくれたら、毎日ブラシをかけてあげようとクリスマスは決めた。


 その次の十年は、さらなる反省の十年だった。三十七番目の誰かが捜しに来てくれたら、毎日ブラシをかけてあげるし、毎日ねぐらを掃除してあげるし、いつでもだっこしてのどをなでてあげるし、ネズミやゴキブリはぜんぶ自分が採ってきてあげるし、もし欲しいと言われたら大事にしていたクレヨンもぜんぶあげよう、とクリスマスは決めた。


 そして、最後の十年をかけて、とうとうクリスマスは悟ったのである。

 次のスカイウォーカーなど、永久に現れはしないのだということを。

 おぼろが、かわいそうだった。


 それから十年の半分が過ぎた今もなお、クリスマスはこうしてダンボール箱の中にいる。

 瓶を守って隠れ続けるためではない。

 とっくにやっていなければならなかったはずのことを、今度こそやるためだ。

 クリスマスにとって、世の中には二種類の猫しかいない。すなわち、「スカイウォーカー」と「それ以外」である。そして、朧を最後にスカイウォーカーは死に絶えてしまった。つまり、この先この箱を開ける者がいるとすれば、そいつは「それ以外」の猫である。

 要するに、大集会の手先である。

 望むところだった。

 誰であろうとやっつけてやる。

 かたきちだ。

 おぼろに代わってうらみを晴らすのだ。

 だって、朧は、悪いことなどひとつもしていなかったのだから。

 朧は教えてくれた。スカイウォーカーの末路など知れきっていると。無事にてん寿じゆまつとうすることなどできない。運に欠ける者は、実験中の事故で死ぬ。たんりよくに欠ける者は、宇宙のあまりの黒さに気がふれる。そして、それ以外の者はすべて、いずれはソウルセイバーの手にかかって殺される。

 朧はその生き残りだった。

 朧は、その最後の生き残りだったのだ。

 朧のすべての観測を、すべての実験をクリスマスは手伝った。難しいことは何ひとつわからなかったけれど、クリスマスは知っている、よく知っている。最後の一匹になってしまっても、朧は決してあきらめなかった。ヤケクソにもならなかった。自分こそは、今度こそは──そう念じて、うんこをするひまも惜しんで研究にうちこんでいたのだ。

 そして、それでもだめだったのだ。

 大集会の長老ハーンたちなどにはわかるまい。がんばってがんばって、うんこをするひまも惜しんでがんばって、それでもだめだったときの気持ちなど、つまるところだれかを殺すしか能のないソウルセイバーなどには決してわかりはすまいとクリスマスは思う。そして、朧は最期まで立ち止まらなかった。だめだとわかった後も朧は研究をやめなかったのだ。朧は確かにおいぼれだったし、がりがりにせていたし、どうしようもないくらい食い意地が汚かったし、灰色の毛並みは使い古しの歯ブラシみたいにぼさぼさだったし、背中にはどでかいハゲまであった。それでも、たとえ背中にどでかいハゲがあろうとも、朧はまぎれもないスカイウォーカーの最後のまつえいだったのだと思う。自分の生きているうちに夢に手が届くことはないだろうという冷徹な判断を下し、しかし努力をすることは決してやめず、過去のスカイウォーカーたちの成し遂げた研究に自分が成し得るあらゆることを上乗せして、いつの日か必ず現れるはずの三十七番目の誰かのために、瓶詰めの夢を残したのだ。

 確かに、その瓶詰めの夢を受け継ぐ者は、ついに現れることはなかった。

 それは認める。

 しかし、朧がしてきたことの、一体どこが死ぬほど悪いことなのだ。

 やっつけてやる。

 誰であろうと容赦はしない。いまさら謝ってもだめだ。泣いたって絶対に許してやらない。

 朧の無念を思い知らせてやる。

 はたしてどちらが死に値するほどの愚か者だったのかを教えてやる。

 新たな目標を得た瞬間から、「つらい」とも「さびしい」とも思わなくなった。夢を抱いて待ち続けるより、恨みをんで待ち続ける方がずっと簡単だった。なにもしなくていい。箱の中の冷たい闇の中で、こうしてただひらすらに身体からだを丸めていればいい。赤いツナギの作業服を着て、ぶ厚くて重そうなスニーカーをいて、狭苦しいダンボール箱の真ん中に浮かび、小さな身体からだぜんぶを使ってリュックサックを抱きしめてうつむき、クリスマスは身動きひとつしない。

 物音が聞こえた。

 クリスマスは無視した。取っ手の穴から外をのぞいても、どうせ、変わったことは何もないに決まっているのだ。こういう物音に何度がっかりさせられたか知れない。そんなものにはもう動じないのだ。子供っぽい期待をするのはもうやめたのだ。この展望台にも、物音を立てるものは結構あるのだ。壁の石積みが温度の変化にきしんだり、漂流物が何かにぶつかったり。

 再び、物音が聞こえた。

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猫の地球儀 焔の章の書影