こうして箱の中にいるだけでも色々なことがわかる。この展望台もずいぶん変わった。昔はこんなに寒くなかったし、空気の流れはもう少しゆっくりだったし、黴だってこんなにたくさんは生えていなかった。黴の中に発光細菌のコロニーが大量発生して、箱の取っ手の穴からいつも緑色の光が射していたこともある。たぶん、気温や気流が何十年もかけてゆっくりと変化して、それにつれて黴の植生も変わってきたのだと思う。生育に適した温度は黴の種類ごとに違うだろうし、珍しい種類の黴の胞子が空気の流れに乗って遠くから運ばれてきたりもするだろう。四十年と半分でこれだけ変わるのだ。あと百年くらいすればもっとめちゃくちゃに変わるかもしれない。ものすごい黴が生えたりすればおもしろい。歩く黴とか喋る黴とか。
三度目は、物音だけではなかった。
微弱なマイクロ波がダンボール箱を叩いた。
暗闇の中を歩く猫が、暗視の補助として無意識に放つ微弱な波だ。
全身の冬眠解除にかかった。無気呼吸の中止、高速神経の磁化処理、血管拡張とマイクロマシンの全群起動、全部をいっぺんにやった。自律系の液体回路に片っ端から火を点け、通電不能な経路を次々とバイパスして循環器系に質問信号を飛ばす。冬眠稼働している三つの心臓が、次の拍動予定は約二時間後だと声を揃えた。血中酸素は喉から手が出るほど欲しかったが、クリスマスは拍動のペースを今以上には上げないことに決める。こちらが物音を立ててはまずい。備蓄しておいた酸素を爆発的に使って、半ば死体のような身体に熱を呼び覚まそうとあがく。神経内の活動電位がでたらめに衝突してしまい、指示信号が末梢まで行き渡らず、酸素はまるで足りない。クリスマスは迷った末に、随意回路の一部を使って肺の呼吸再開を許可する。呼吸音を聞きつけられるかもしれないが、冬眠からの復帰がこれ以上遅れるよりはましだ。
静かに吸って、吐いた。
氷点をはるかに下回る気温にもかかわらず、薄く開いた口からもれる息はいつになっても白くはならない。薬物信号で何度も何度もブーストしているのに体温が遅々として上がらない。
物音がまた聞こえた。
四つ足がほぼ同時に床を蹴った音であると容易に分析できるほどの近さだった。
5メートル。それ以上に遠いということは絶対にない。
どうしよう、どうしよう。
とにかく動けるようになることだ。脳圧の上昇もPhバランスの安定も後に回した。全骨格を磁化させて骨内の神経をONする。酸素を筋肉組織だけに集中消費させ、どうにか身体を動かせるところまで強引にもっていく。
目を開けた。
箱形に切り取られた冷たい闇と、久しぶりに目にするダンボールの黴のしみと、すぐ目の前にある取っ手の穴と、その向こう側に広がる展望台の夜。
あれきり、何も聞こえない。
だが、いるはずだ。
痺れるような恐怖を感じた。自律系が動き始めている今のクリスマスにとって、それは「泣きたくなるほどの」恐怖だった。弱虫な自分が死ぬほど情けない。ケンカにはそれなりに自信があったのに、この箱を開ける奴は誰だろうとやっつけてやるなんて息巻いていたくせに、いざそのときがきたらこのざまだ。それでも、本当に泣くわけにはいかない。そんなことをしたら外にいる奴に気づかれてしまう。この寒さでは涙だって凍りつく。
箱に触れないように気をつけて、固く丸めていた身体をゆっくりとほどく。懸命に恐怖をねじ伏せる。そおっと頭を上げて、取っ手の穴に顔を近づけ、外をのぞいてみた。
穴の外には、闇があった。
闇には二つの金色の目玉がついていて、穴のすぐ向こうからこちらをのぞき込んでいた。
クリスマスは悲鳴を上げた。
◇
天使は、箱の中にいた。
とうとう見つけた。暗闇でも利く猫の目には、額のマーキングに書かれている名前もはっきりと見えた。伝説の語る通りだった。色の抜けた髪。闇になお白い牙。だぶだぶの赤い作業服と、大きくて分厚いスニーカー。
が、驚いたのはお互い様だった。
幽だって、まさか向こうからもこっちをのぞいているなんて思っていなかったのだ。お互いの目が合った途端、ダンボール箱は悲鳴を上げてがったんぼっこんと揺れ動き、幽は幽で全身の毛が逆立つほどびっくりした。反射的に箱を蹴って身体を反転させ、菌糸の枝を足場に飛び跳ねて、一目散に黴の林の中へと逃げ戻った。
まだ、ほんの子猫だった。
トルクの夜に金色の目をつけたような、幽は本当にどこまでも真っ黒な猫だった。菌糸の枝にしがみつき、ぴったりと身を伏せて、ダンボール箱をじっと見つめている。額からは太くて長いヒゲのようなものが突き出ているが、これは「電波ヒゲ」というトルクの猫に特有の器官である。これがあるおかげで、トルクの猫はデジタル信号を電波に乗せて会話をすることができるし、物に当たって跳ね返ってくる波を感じ取って闇と霧に満ちたトルクの回廊を歩き回ることができる。長くて器用な尻尾もまたトルクの猫の特徴で、物をつかんだり、パイプに巻きつけて滑り降りたり、獲物の目の前でゆらゆら動かして注意をそらしたりといった、様々な場面で活躍をする。
が、幽にはひとつだけ妙なところがあった。
相棒のロボットを連れていないのだ。
この年頃の猫がまだロボットを持たないのはそれほど珍しいことではない。トルクの猫はロボットと一緒でなければ一歩も出歩けない、というわけでも無論ない。しかし、幽が今いるここは、トルク中心柱のてっぺんにある展望台である。猫たちが多く住む外殻からこの展望台までの間には、無数の気門が、危険な毒黴の森が、気密が破れて真空地帯となった回廊があるはずなのだ。
そんな、ロボットを連れた大人の猫でも二の足を踏むような道のりを、この黒猫はどうやって踏破してきたのだろうか。
『びっくりした? 怒ってる?』
幽は、デジタル信号でダンボール箱に話しかけた。
『またそっちへ行ったら何かする?』
ダンボール箱は答えない。
金属製の短いパイプが幽のすぐ近くを漂っていた。幽はそのパイプを尻尾でつかんで引き寄せ、箱を見つめて一秒で狙いをつける。くるりと宙返りをして、身体を鞭のようにしならせて、力を加減して投げた。パイプは宙を飛び、ダンボール箱の「ひろってください」と書かれたあたりにぼんと当たって跳ね返った。
その瞬間、ダンボール箱は、せっぱつまった早口でこう言った。
「雨になるでしょう雨になるでしょう。前線の南下とともに雨になるでしょう。内陸部では風も強くところによって強い雨が降りますので充分な警戒が必要です。明け方の気温は朝今と同じくらいのところが多く寝苦しい夜が続きそうです」
思わぬ反応に幽は目を見開いた。
天使語は遥かな昔に失われてしまった言語だ。古文書に書かれている文字の意味を汲み取るならともかく、音響資料など今ではほとんど残っていないし、「声による話し言葉」という概念がそもそも猫にはない。天使語を耳で聞きとってその意味を理解するなど、どんなに優秀な考古学者にとっても至難の業である。
しかし幽には、ダンボール箱が何を言っているのか、何となくわかるのだ。
なぜそんなことがわかるのかは、よくわからない。
無意味な反応ではないという不思議な確信がある。ひどく慌てていて、怖がっていて、一生懸命に強がっているのだと思う。何をするんだこのノミ野郎、あっちへ行け、お前など少しも恐くないぞ──そんなことを言っているのだ。
再びダンボール箱に問いかける。
『そっちへ行ってもいい?』
ダンボール箱は答える。
「大雨洪水警報です」
幽はなんだかおかしくなって、身体が浮き上がらないように長い尻尾を枝に巻きつけ、その場でくるくると踊った。気持ちが昂って背中の毛がちりちりする。ダンボール箱は恨めしげな沈黙を守っている。