竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る
一 ①
明治も終わりの頃である。
先代の
たいそうな造りの門が開いて、車夫を務めた下男の
「お嬢様、あぶのうございます。おやめください」
「あら、随分と心配性ね。女学校にて家事裁縫音楽木登りいずれも優秀な成績をおさめたこのわたしを見くびってもらっては困るわよ」
「女学校で木登りは教えますまい」
「最近の女学校では教えるのよ」
「そんな馬鹿な」
私たちはぞろぞろと大広間の宴会場へと移動して、
客人を持て成すための庭園はいつ見ても見事である。赤い橋のかかった大きな池には金魚や
しかし今はこの趣深い庭園の、中でもひときわ立派な松に、一人の娘がしがみつき、じりじりと登っているのだから珍妙だ。皆顔を見合わせて苦笑した。
「最近の女は皆ああなのかな」
「さあ、どうだか。東京ではああするのが流行なのかもしれない。金沢じゃまず見ないがね」
「ああ、なんだか猫がどうとか言っていますよ」
私たちは硝子窓を開け、縁側に出て行って耳を澄ませた。確かに猫が猫がという甲高い声が聞こえる。どうやら娘は松のてっぺんに登ってしまった
その後しばらくして娘は仔猫を抱えて無事に松から降りたが、降りた先は庭園の垣根の外側だったため、様子はよくわからなかった。ただ娘のあっけらかんとした元気な笑い声が聞こえてきたので、その様子から娘が
「お嬢様のお帰りい」
程なくして玄関の方から白樺の歌うような声が響いた。私たちは室内に戻り、硝子戸を閉めて玄関の方へ向かった。
玄関はえらく
娘は
「ああ、あんまりだわ。だって仔猫だと思って頑張ったのに白い手拭いだったんですもの。でも
どうやら木のてっぺんで降りられなくなっていたものは仔猫ではなかったらしかった。ただ絡まった白い手拭いを、
裾を絡げた着物は汚れ、白い顔には松葉で擦ったらしいかすり傷がついていたが、娘はどこ吹く風である。
互いに
しかし下男の
「松の木にかかった手拭いって、まさかおかとときのじゃねえだろうな」
「まさか。風流好みのおかとときがあんな汚い手拭い寄越すわけないさ」
すると立山が、腕車を片づけて戻って来た白樺に声を掛けた。この
下男はいずれも青年であるが、檜葉だけ小柄、夜の色をした黒髪を首の辺りで
しかし何より目を引くのはやはり三人の端整な顔立ちであった。三人とも驚くほど整っているのだが、それは作り物めいており、
下男の三人は曇った表情のままひそひそと話し合っていたが、
「あの手拭いはおかとときのものではない」
と結論付け、相談の輪を解いた。
檜葉は娘を屋敷に上げ、
「こちらがお亡くなり遊ばした先代の竜胆のお嬢様です」
惜菫と八十椿と藤潜がばらばらに軽く頭を下げる中、娘は松葉の簪の彩るマガレイトをひょいと傾けてこう言った。
「どうも
なんてことはない挨拶だが、ここでは少しばかり事情が違う。一同顔色をさっと変えて身構えた。血相を変えた檜葉が慌てて娘を
「いけません、お嬢様のお名前はこの屋敷に入った今から竜胆となりました。本当の名をここで口にすることは今後はお止めください」
「あらどうして。自分の名を名乗ることがそんなにいけないことかしら。お父様がくださった大事なお名前なのよ」
「それなら
「おかととき?」
突如現れた名に娘は興味津々といった様子、
「おかとときといいますのは、お嬢様が今日からお相手するお客様の通称でございます。後でしっかりとご説明しますから、そう焦らずとも。とにかくお嬢様の名は今日から竜胆、お亡くなり遊ばした御父様から受け継いだお名前です。その自覚をお持ち遊ばせ」
「竜胆、それがお父様のここでのお名前だったのね。雅号かしら、なんだか不思議ね」
娘、もとい竜胆が面白そうに言うのを八十椿が
「きみは何も知らないんだな」
「ええ、わたしは生まれたときから東京で、お父様はずっと金沢にいらっしゃったから、お会いすることもあまりなかったのよ。先日お父様がお亡くなり遊ばして、わたしがその仕事を引き継ぐよう連絡があったけれども、わたしはお父様が金沢でどんな仕事をなさっていたのか何も知らされていなかったの。でも、別に悪い気はしないわ。今はすべてが新しく感じられていい気持ちよ。何か不都合なところがあって?」
どうも気の強い娘である。八十椿の棘に弱るどころか目元鋭く受けて立ったので、彼は少し
「それであなた達は? ここで働いていらっしゃるの?」
竜胆は今度は目の前の美しい三人の男、惜菫、八十椿、藤潜に問いかけた。しかし三人の代わりに答えたのは下男の檜葉であった。
「この者どもはうちの
予想外の答えに竜胆は少し面食らった。しかしすぐにそれを冗談だと判断し明るく笑った。
「まあ、人に向かって商物だなんて。たちの悪い冗談だわ」



