陸上部に限らず、クラブに所属すれば不要な記憶をいまの何倍も溜め込んでしまうだろうし、そもそも朋美の関心を引いたミノルのスピードは、五年間のランニングで得たものではない。三ヶ月前、体に入り込んだ《何か》の影響だとしか思えないのだ。
そんな、言わば借り物の力で、真剣に頑張っている陸上部員たちと競っていいはずがないし、得た時と同様に突然速さが失われてしまう可能性もある。誘われるがまま陸上部に入ってから、急に足が遅くなったりしたら……と考えるだけで冷や汗が滲む。
「……その……」
──僕は、速くなりたくて走っているわけじゃないんだ。
ということを、穏便に伝えるにはどう言えばいいのか、ミノルはしばし苦慮した。
だが、何かを口にするよりも先に。
「…………!」
近頃やけに鋭敏になってきた気がする耳が、しゃあっというような軽い音を捉えた。反射的に右側を見ると、濃い朝靄の向こうから、急速に近づく影が見えた。
自転車──ロードレーサーだ。
車止めの隙間に、スピードを落とさず突っ込んでくる。そしてその進路上には、箕輪朋美が立っている。自転車側が前方の人影を認識しているかどうかは定かでないが、朋美は明らかに気付いていない。
このままでは、三秒もしないうちに接触、いや衝突する。時速三十キロメートルは出ていそうな自転車に突っ込まれれば、かすり傷では済まない。
ようやく朋美を視認したらしい自転車乗りが、「おい!」と大声を出した。
その声をきっかけに、やっとミノルも動いた。一歩前に出ながら右手を伸ばし、朋美の背中に回すと、思い切り左側に押しやる。ロードレーサーの細いタイヤが急ブレーキでロックし、朝靄で濡れた路面を滑る。
ミノルに押された朋美が、自転車の進路から外れる。反動で、ミノルは前方につんのめる。右側から、停止できない自転車が迫る。
ぶつかる。
ミノルは息を詰めた。
どくん、と心臓が大きく脈打った。
その時──。
《何か》が起きた。
あらゆる音が消滅する。
視界全体がわずかに青みがかる。
靴底が路面から離れ、体が数センチ持ち上げられる。
ロードレーサーのハンドルからツノのように突き出したブレーキレバーが、ミノルの右腕に接触した。そのはずだった。
だがミノルは何も感じなかった。痛みも、衝撃も、何かが触れたという感覚すらなかった。
自転車は弾かれたように進路を右にずらし、大きくふらついたものの辛くもバランスを回復して、遊歩道の中央に戻った。ほぼ同時に、ミノルに訪れた《何か》が去った。
世界の色が元に戻り、浮き上がっていた両足が路面に触れる。異様な静寂も消散し、様々な環境音が押し寄せる。
「気をつけろ!」
という怒鳴り声は、自転車乗りのものだ。徐行しながら振り向き、サングラス越しにミノルたちを睨み付けてから、スピードを上げて北へと走り去っていく。
大きな事故にならなくて良かった、と考える余裕は、ミノルにはなかった。
──なんだ、さっきのは!?
不安定な姿勢のまま、鋭く息を吸い込む。強張る右手を動かし、目の前に持ってくる。
自転車は、確かにこの手に接触したはずだ。掠めた、程度ではない。自転車の進路が変わるほどの衝突だったのだから、こちらも体ごと弾き飛ばされるか、そうでなくともアザのひとつくらいできていなければおかしい。
だが、右手をどれほど眺め回しても、打ち身も切り傷も見つからない。もちろん痛みも一切感じない。
「う……空木くん! 大丈夫!?」
掠れた声に、ミノルは右手を下ろし、顔を左に向けた。
すると、両手を胸の前で握り合わせた箕輪朋美が、いまどきの女の子にしてはクッキリした眉を見事な八の字に固定し、両眼を零れ落ちんばかりに見開き、口をかまぼこ形に強張らせていた。
その、豊かすぎる表情を眺めているうちに──。
ミノルは、軽く噴き出してしまった。慌てて口を塞ぎ、謝る。
「ご、ごめん。箕輪さんが、すごい顔してるもんだから……」
すると朋美はきょとんと眼を瞬かせ、次いで頰を真っ赤に染めた。
「な……なによ、心配してるのに! 顔に出すぎなのは昔からだもん! それより、怪我は!? いま、自転車とぶつかったでしょ!?」
「……うん、でも……」
ミノルは表情を改めると、朋美に自分の右手を示した。
「大丈夫だったみたいだ。どこも怪我してないよ」
「ほ、ほんと? …………よかった…………」
これ以上ないほどホッとした表情を見せてから、朋美は軽く唇を嚙み、いきなり深々と頭を下げた。
「ぼーっとしててごめんなさい! それと、かばってくれてありがと!」
「い、いや……そっちも、怪我しなくてよかった」
ミノルがそう応じても、小柄な陸上部員は五秒近くも低頭し続けていたが、やがておずおずと顔を上げた。
「……あたし、前にも、この道で自転車にぶつかりそうになったの。だから、ロード練はずっと秋ヶ瀬でやってたんだけど……」
朋美が口にした地名は、埼玉県さいたま市桜区南西部の、荒川の本流と堤防の間に作られた大きな公園のことだ。ジョガーには人気のスポットだが、ミノルはあまり足を向けていない。秋ヶ瀬に限らず、大型の公園に入ると、ずっとずっと昔の記憶を刺激されるからだ。
「……この道は、自転車がスピード出してるからね。でも、何もなくてよかったよ」
思考を堰き止め、もう一度ミノルが繰り返すと、朋美はようやく笑顔を見せた。
「うん、ほんとにありがとう、空木くん。もうすぐ合同合宿だから、怪我したら大変なことになってたよ。やっぱり、空木くん、昔から……」
そこで言葉が止まったので、ミノルは軽く首を傾げた。
すると朋美は、少し迷うような表情を見せたあと、再び喋り始めた。
「……ほら、中二の時、教室で空木くんが珍しく大きな声出したことあったでしょ? あたし、よく覚えてるよ。あの時、空木くんが怒ったの、先生がお姉さんのこと悪く言ったからだよね。あたしもすっごく腹が立って、先生に言い返したかったけど、怖くてできなかった。あの時、思ったんだ。空木くん、勇気あるなって……それと、優しい人なんだな、って……」
朋美の、その言葉を──。
途中から、ミノルはほとんど聞いていなかった。
息が詰まる。体の芯がかあっと熱くなり、それなのに手足は氷のように冷たくなる。
忘れなければならない──忘れたはずの記憶だったのに。あの場にいた全員が、もう誰ひとり覚えていないはずの記憶だったのに。
深く俯く。両手をきつく握り締める。塞がりかけた喉からどうにか空気を吸い込み、吐き出す。
「…………空木くん……?」
訝しそうに呼びかける朋美の顔を見ずに、ミノルは掠れ声で言った。
「そ……そろそろ帰らないと、学校に遅刻しちゃうから。それじゃ……また」
そしてミノルは体の向きを変え、少し先にある階段へと全力で走り始めた。
こんなふうに逃げたら、箕輪朋美に変に思われる。正確には、変に思われたという、容易に消せない記憶を抱え込んでしまう。
そう解っていてなお、走らずにはいられなかった。
……こんなにも、空気の如くあろうと努力しているのに。それなのに、どうしてひとは僕を記憶するのか。どうして、僕を独りにしてくれないのか。
孤独。
孤独になりたい。誰の記憶にも残らず、誰のことも記憶しない、そんな空白の世界で永遠にうずくまっていたい。
コンクリートの階段を駆け下り、住宅街に入っても、ミノルは懸命に走り続けた。
先刻、自分を襲った──あるいは守った異常な現象のことは、もうほとんど忘れていた。