Fragment 02 ③

 陸上部に限らず、クラブに所属すれば不要なおくをいまの何倍もめ込んでしまうだろうし、そもそも朋美の関心を引いたミノルのスピードは、五年間のランニングで得たものではない。三ヶ月前、体に入り込んだ《何か》のえいきようだとしか思えないのだ。

 そんな、言わば借り物の力で、真剣に頑張っている陸上部員たちと競っていいはずがないし、得た時と同様に突然速さが失われてしまう可能性もある。さそわれるがまま陸上部に入ってから、急に足がおそくなったりしたら……と考えるだけで冷や汗がにじむ。


「……その……」


 ──僕は、速くなりたくて走っているわけじゃないんだ。

 ということを、おん便びんに伝えるにはどう言えばいいのか、ミノルはしばしりよした。

 だが、何かを口にするよりも先に。


「…………!」


 近頃やけにえいびんになってきた気がする耳が、しゃあっというような軽い音をとらえた。反射的に右側を見ると、濃いあさもやの向こうから、急速に近づく影が見えた。

 自転車──ロードレーサーだ。

 車止めのすきに、スピードを落とさず突っ込んでくる。そしてその進路上には、みの朋美が立っている。自転車側が前方の人影を認識しているかどうかは定かでないが、朋美は明らかに気付いていない。

 このままでは、三秒もしないうちに接触、いやしようとつする。時速三十キロメートルは出ていそうな自転車に突っ込まれれば、かすり傷では済まない。

 ようやくともを視認したらしい自転車乗りが、「おい!」と大声を出した。

 その声をきっかけに、やっとミノルも動いた。一歩前に出ながら右手を伸ばし、朋美の背中に回すと、思い切り左側に押しやる。ロードレーサーの細いタイヤが急ブレーキでロックし、あさもやれた路面をすべる。

 ミノルに押された朋美が、自転車の進路から外れる。反動で、ミノルは前方につんのめる。右側から、停止できない自転車がせまる。

 ぶつかる。

 ミノルは息を詰めた。

 どくん、と心臓が大きく脈打った。

 その時──。

《何か》が起きた。



 あらゆる音がしようめつする。

 視界全体がわずかに青みがかる。

 靴底が路面からはなれ、体が数センチ持ち上げられる。



 ロードレーサーのハンドルからツノのように突き出したブレーキレバーが、ミノルの右腕に接触した。そのはずだった。

 だがミノルは何も感じなかった。痛みも、しようげきも、何かがれたという感覚すらなかった。

 自転車ははじかれたように進路を右にずらし、大きくふらついたもののからくもバランスを回復して、遊歩道の中央に戻った。ほぼ同時に、ミノルに訪れた《何か》が去った。

 世界の色が元に戻り、浮き上がっていた両足が路面に触れる。異様なせいじやくも消散し、様々な環境音が押し寄せる。


「気をつけろ!」


 というり声は、自転車乗りのものだ。徐行しながら振り向き、サングラス越しにミノルたちをにらみ付けてから、スピードを上げて北へと走り去っていく。

 大きな事故にならなくて良かった、と考える余裕は、ミノルにはなかった。

 ──なんだ、さっきのは!?

 不安定な姿勢のまま、するどく息を吸い込む。こわる右手を動かし、目の前に持ってくる。

 自転車は、確かにこの手に接触したはずだ。かすめた、程度ではない。自転車の進路が変わるほどの衝突だったのだから、こちらも体ごと弾き飛ばされるか、そうでなくともアザのひとつくらいできていなければおかしい。

 だが、右手をどれほどながめ回しても、打ち身も切り傷も見つからない。もちろん痛みも一切感じない。


「う……うつくん! だいじよう!?」


 かすれた声に、ミノルは右手を下ろし、顔を左に向けた。

 すると、両手を胸の前でにぎり合わせたみのともが、いまどきの女の子にしてはクッキリしたまゆを見事な八の字に固定し、両眼をこぼれ落ちんばかりに見開き、口をかまぼこ形にこわらせていた。

 その、豊かすぎる表情を眺めているうちに──。

 ミノルは、軽く噴き出してしまった。あわてて口をふさぎ、謝る。


「ご、ごめん。箕輪さんが、すごい顔してるもんだから……」


 すると朋美はきょとんと眼をまたたかせ、次いでほおを真っ赤に染めた。


「な……なによ、心配してるのに! 顔に出すぎなのは昔からだもん! それより、は!? いま、自転車とぶつかったでしょ!?」

「……うん、でも……」


 ミノルは表情を改めると、朋美に自分の右手を示した。


「大丈夫だったみたいだ。どこも怪我してないよ」

「ほ、ほんと? …………よかった…………」


 これ以上ないほどホッとした表情を見せてから、ともは軽くくちびるみ、いきなり深々と頭を下げた。


「ぼーっとしててごめんなさい! それと、かばってくれてありがと!」

「い、いや……そっちも、しなくてよかった」


 ミノルがそう応じても、小柄な陸上部員は五秒近くも低頭し続けていたが、やがておずおずと顔を上げた。


「……あたし、前にも、この道で自転車にぶつかりそうになったの。だから、ロード練はずっとあきでやってたんだけど……」


 朋美が口にした地名は、埼玉県さいたま市さくら区南西部の、あらかわの本流と堤防の間に作られた大きな公園のことだ。ジョガーには人気のスポットだが、ミノルはあまり足を向けていない。秋ヶ瀬に限らず、大型の公園に入ると、ずっとずっと昔のおくを刺激されるからだ。


「……この道は、自転車がスピード出してるからね。でも、何もなくてよかったよ」


 思考をき止め、もう一度ミノルがり返すと、朋美はようやく笑顔を見せた。


「うん、ほんとにありがとう、うつくん。もうすぐ合同合宿だから、怪我したら大変なことになってたよ。やっぱり、空木くん、昔から……」


 そこで言葉が止まったので、ミノルは軽く首をかしげた。

 すると朋美は、少し迷うような表情を見せたあと、再びしやべり始めた。


「……ほら、中二の時、教室で空木くんがめずらしく大きな声出したことあったでしょ? あたし、よく覚えてるよ。あの時、空木くんがおこったの、先生がお姉さんのこと悪く言ったからだよね。あたしもすっごく腹が立って、先生に言い返したかったけど、怖くてできなかった。あの時、思ったんだ。空木くん、勇気あるなって……それと、優しい人なんだな、って……」


 朋美の、その言葉を──。

 途中から、ミノルはほとんど聞いていなかった。

 息が詰まる。体のしんがかあっと熱くなり、それなのに手足は氷のように冷たくなる。

 忘れなければならない──忘れたはずの記憶だったのに。あの場にいた全員が、もうだれひとり覚えていないはずの記憶だったのに。

 深くうつむく。両手をきつくにぎめる。ふさがりかけたのどからどうにか空気を吸い込み、き出す。


「…………空木くん……?」


 いぶかしそうに呼びかける朋美の顔を見ずに、ミノルはかすれ声で言った。


「そ……そろそろ帰らないと、学校にこくしちゃうから。それじゃ……また」


 そしてミノルは体の向きを変え、少し先にある階段へと全力で走り始めた。

 こんなふうに逃げたら、みの朋美に変に思われる。正確には、変に思われたという、容易に消せないおくを抱え込んでしまう。

 そうわかっていてなお、走らずにはいられなかった。

 ……こんなにも、空気のごとくあろうと努力しているのに。それなのに、どうしてひとは僕を記憶するのか。どうして、僕を独りにしてくれないのか。

 どく

 孤独になりたい。だれの記憶にも残らず、誰のことも記憶しない、そんな空白の世界で永遠にうずくまっていたい。

 コンクリートの階段を駆け下り、住宅街に入っても、ミノルはけんめいに走り続けた。

 先刻、自分をおそった──あるいは守った異常な現象のことは、もうほとんど忘れていた。

刊行シリーズ

絶対ナル孤独者5 ―液化者 The Liquidizer―の書影
絶対ナル孤独者4 ―刺撃者 The Stinger―の書影
絶対ナル孤独者3 -凝結者 The Trancer-の書影
絶対ナル孤独者2 -発火者 The Igniter-の書影
絶対ナル孤独者1 ‐咀嚼者 The Biter‐の書影