Fragment 02 ②
体に入り込んだものが何だろうが、そいつが十キロランのタイムを伸ばそうが落とそうが、どうでもいい。別に、大会に出るために走っているのではないのだから。
望むのは、ただ無色透明な日々が過ぎ去っていくこと。余計な
──そう、いまの僕は、幽霊みたいなものだ。本当なら、あの日、父さんと、母さんと……そして姉さんと
声に出さずに独りごちると、ミノルは体の向きを変えた。
少し先に、土手を降りる階段が見える。そこから自宅までは約一キロメートル。
タイム計測モードだった時計を時刻表示モードに戻し、登校時間までまだ充分に余裕があることを確認する。顔を上げると、あかね色に染まり始めた空が目に入る。今日もまた、昨日と変わらない一日が始まる。
時間割を頭の中で確認しながら、階段に向かおうとした時。
後ろから、リズミカルな足音が聞こえてきた。同じコースを走っていたランナーが追いついてきたのだ。
ミノルは、いったん遊歩道の
足音は、少しずつ減速し、ミノルの真後ろで停止した。
はあはあと荒い息遣いが耳に、
ならばいつまでもここに立っている理由もない。顔をそむけたまま、階段へと歩き出そうとしたミノルは、しかし再び足を止めざるを得なかった。
右斜め後方から、突然呼びかけられたのだ。
「あ、待って……
呼吸の合間に発せられた言葉に、ぎょっと立ち止まってしまう。
声に聞き覚えはない。知り合いがこのコースをこの時間に走っているという記憶もない。そうと知っていたら、場所か時間を変えている。
ほんの
二メートルほど
同学年か、少し下だろう。小柄で、髪は短い。いっけん
そしてやはり、上目遣いにこちらを見る顔に
「……ええ……と……」
「ミノワ」
「は、はい?」
「
「……そ、そう……」
どう反応すべきか決めかねて、ひとまず微妙な角度で
埼玉県立吉城高校は確かにミノルが通っている学校で、学年も同じだが、クラスが違う。ミノルは校舎の反対側にある一組だし、入学してそろそろ八ヶ月が
と、そこまで考えたところで、朋美が再び口を開いた。
「……で、
「…………そ、そう……」
今度は、先刻よりも少し深めに首を動かす。
すなわち眼前の女子生徒は、たった二年前──いや正確には一年と九ヶ月前まで、ミノルのクラスメートだったわけだ。
人の顔を覚えるのは得意ではない。会話中も相手の顔をまともに見られないのだから当然と言えば当然だが、それにしても、一年も同じクラスで勉強していれば一度や二度は話したことがあったはずだ。なのにこうも思い出せないというのは、毎日の《記憶リセットランニング》に思った以上の効果があったのだろうか……。
などと考えていると、不意に、眼前のむくれ顔に
「えっと……箕輪さん……ミノワさん…………。──あれ……昔は、もっと髪が長かったような……」
ミノルが
「正解! 高校に上がる前にバッサリやったの」
「……ふうん……」
これはバッサリの理由を
と悩む必要は、幸いなかった。朋美が、肩上三センチほどにある毛先を
「うちの陸上部、一年はロング禁止なんだよね。中学の時は結んでればOKだったのにさ」
「そうなんだ」
と、当たり
部活の規則が
──いや、そういう話でもなく。
単純に、この
その思考が、再び遠い
「ああ……箕輪さんて、もしかしたら、中三の時に全国大会に出た……」
「思い出すの、
不満顔でそう叫んでから、朋美はすぐにくしゃっと破顔した。
「でも、ひとの部活の話なんてそんなもんだよね。それに、全中に出たって言っても十位だったし……今年は県予選止まりだったし……」
「い、いや、
「……そーゆう
「え?」
「
「……き、気付かなかったな……」
「見たとこ、あんまり汗もかいてないし」
「……き、今日はすごく寒いから……」
などと言い訳しつつも、内心で大いに
走っているところを同じ学校の生徒に見つかり、しかも追いかけられていたとは、まったく気付かなかった。そのうえ、自分の走行ペースがそこまで──女子陸上部の全国大会経験者と同レベルにまで上昇していようなどとは、想像もしていなかったのだ。
「
「……うん」
「毎日ここ走ってるの? いつ
「えっと……」
何かをごまかそうにも過大申告すべきか過小申告すべきか
「……五年前から、十キロくらい」
「へえ──っ!」
ミノルの返事をどのように
「すごいねえ、うちの部員でも毎朝そんなに自主練してる人なかなかいないよ」
続けて、ミノルが恐れていた言葉を、さらりと口にする。
「そんなに速いんだから、入ればいいのに、陸上部!」
「えっ……と……」
こればかりは、うんと答えるわけにはいかない。



