Fragment 02 ②

 体に入り込んだものが何だろうが、そいつが十キロランのタイムを伸ばそうが落とそうが、どうでもいい。別に、大会に出るために走っているのではないのだから。

 望むのは、ただ無色透明な日々が過ぎ去っていくこと。余計なおくを増やさず、だれの記憶にも残らず、あたかもゆうれいのようにひっそりと生きていくことだけ。

 ──そう、いまの僕は、幽霊みたいなものだ。本当なら、あの日、父さんと、母さんと……そして姉さんといつしよに、僕も死ぬはずだったんだから。

 声に出さずに独りごちると、ミノルは体の向きを変えた。

 少し先に、土手を降りる階段が見える。そこから自宅までは約一キロメートル。

 タイム計測モードだった時計を時刻表示モードに戻し、登校時間までまだ充分に余裕があることを確認する。顔を上げると、あかね色に染まり始めた空が目に入る。今日もまた、昨日と変わらない一日が始まる。

 時間割を頭の中で確認しながら、階段に向かおうとした時。

 後ろから、リズミカルな足音が聞こえてきた。同じコースを走っていたランナーが追いついてきたのだ。

 ミノルは、いったん遊歩道のひだりはしまで下がった。この場所は、車止めのせいでコースの真ん中しか走れないので、そこをふさいでしまうと通り抜けようとするランナーのじやになる。もし舌打ちでもされようものなら、せっかくリセットした頭の中に、早くもいやな記憶をめ込んでしまう。

 彼方かなたで真冬の朝日を受けてきらめく、さいたま新都心の高層ビル群をながめながら、ランナーが通り過ぎるのを待っていると──。

 足音は、少しずつ減速し、ミノルの真後ろで停止した。

 はあはあと荒い息遣いが耳に、ほのかな香りが鼻に届く。姿は見えないが女性ランナーだろう。どうやらミノルと同じく、このポイントを終点にしていたらしい。

 ならばいつまでもここに立っている理由もない。顔をそむけたまま、階段へと歩き出そうとしたミノルは、しかし再び足を止めざるを得なかった。

 右斜め後方から、突然呼びかけられたのだ。


「あ、待って……うつくん……でしょ?」


 呼吸の合間に発せられた言葉に、ぎょっと立ち止まってしまう。

 声に聞き覚えはない。知り合いがこのコースをこの時間に走っているという記憶もない。そうと知っていたら、場所か時間を変えている。

 ほんのいつしゆん、「違います」と走り去ろうかと思ったが、そういうしようどうてきかつとうてきな反応は決して最上のせんたくではないと、いくつかの失敗を経て学んだ。だつあきらめて、ぎこちない動作で振り向く。

 二メートルほどはなれた場所で、りようひざに両手を乗せた姿勢で盛んに真っ白い息をいているのは、小柄な女性──と言うより女子だった。

 同学年か、少し下だろう。小柄で、髪は短い。いっけんきやしやだが、パステルグリーンのランニングウェアから伸びる手足にはしっかりと筋肉がつき、日常的に走り込んでいることをうかがわせる。

 そしてやはり、上目遣いにこちらを見る顔におぼえは──ないような、あるような。


「……ええ……と……」


 だれでしたっけ、とは言えずに語尾をにごすと、女の子の浮かべていた微笑が消え、口が見事なへの字形になった。ようやく呼吸が整ったのか、深々と息を吸いながら勢いよく体を起こし、両手を腰の後ろ寄りにばしっと当てて──。


「ミノワ」

「は、はい?」

みのともよし高の一年八組」

「……そ、そう……」


 どう反応すべきか決めかねて、ひとまず微妙な角度でうなずく。

 埼玉県立吉城高校は確かにミノルが通っている学校で、学年も同じだが、クラスが違う。ミノルは校舎の反対側にある一組だし、入学してそろそろ八ヶ月がつとは言え、箕輪朋美と名乗る女子生徒の顔を覚えていなくてもやむを得ないのではないか。

 と、そこまで考えたところで、朋美が再び口を開いた。


「……で、はつちゆうの時は、二年二組」

「…………そ、そう……」


 今度は、先刻よりも少し深めに首を動かす。

 はちおう中学校も、ミノルが通っていた学校だ。しかも二年生の時は二組だったおくがある。

 すなわち眼前の女子生徒は、たった二年前──いや正確には一年と九ヶ月前まで、ミノルのクラスメートだったわけだ。

 人の顔を覚えるのは得意ではない。会話中も相手の顔をまともに見られないのだから当然と言えば当然だが、それにしても、一年も同じクラスで勉強していれば一度や二度は話したことがあったはずだ。なのにこうも思い出せないというのは、毎日の《記憶リセットランニング》に思った以上の効果があったのだろうか……。

 などと考えていると、不意に、眼前のむくれ顔にあわおもかげが重なった。まゆを寄せ、けんめいに遠い記憶をたぐり寄せる。


「えっと……箕輪さん……ミノワさん…………。──あれ……昔は、もっと髪が長かったような……」


 ミノルがつぶやくと、ともげんがおが、しゆんに笑顔へと戻った。ショートヘアを勢いよくらしてうなずく。


「正解! 高校に上がる前にバッサリやったの」

「……ふうん……」


 これはバッサリの理由をくべき場面なのかいなか。

 と悩む必要は、幸いなかった。朋美が、肩上三センチほどにある毛先をつまみながらあっさりと理由を口にしたからだ。


「うちの陸上部、一年はロング禁止なんだよね。中学の時は結んでればOKだったのにさ」

「そうなんだ」


 と、当たりさわりのない相づちを返す。

 部活の規則がじんだと思うなら、改善をうつたえるか辞めればいいのに、と考えてしまうのがミノルだが、口には出さない。クラブ活動、とくに運動部はそう簡単に辞められるものではないらしいし、一年生部員が長年の決まりに文句など言えば、それはそれでめんどうなことになりそうだ。

 ──いや、そういう話でもなく。

 単純に、このみの朋美という女子生徒は、陸上が……走ることが好きなのだろう。そのためなら、髪をばっさり切ってしまえるくらい。

 その思考が、再び遠いおくを呼び覚ます。全校朝礼のだんじようで、校長から表彰状を手渡され、ぴょこんとおをする女子生徒。その後ろ頭で元気に揺れるポニーテール。


「ああ……箕輪さんて、もしかしたら、中三の時に全国大会に出た……」

「思い出すの、おそい!」


 不満顔でそう叫んでから、朋美はすぐにくしゃっと破顔した。


「でも、ひとの部活の話なんてそんなもんだよね。それに、全中に出たって言っても十位だったし……今年は県予選止まりだったし……」

「い、いや、すごいと思うよ。全国で十番なんて、なかなかなれるもんじゃないよ」


 あわててフォローしたつもりだったのだが、なぜか朋美は再びくちびるとがらせた。


「……そーゆううつくんに、あたし、ぜんぜん追いつけなかったんですけど」

「え?」

くらばしのとこで見かけたから追いかけたのに、ここまでぜーんぜん追いつけなかったんですけど!」

「……き、気付かなかったな……」

「見たとこ、あんまり汗もかいてないし」

「……き、今日はすごく寒いから……」


 などと言い訳しつつも、内心で大いにあわてる。

 走っているところを同じ学校の生徒に見つかり、しかも追いかけられていたとは、まったく気付かなかった。そのうえ、自分の走行ペースがそこまで──女子陸上部の全国大会経験者と同レベルにまで上昇していようなどとは、想像もしていなかったのだ。

 だまり込むミノルを、ともは茶色がかった大きなひとみでじっと見つめてくる。


うつくんて、中学でも、高校でも、陸上やってないよね?」

「……うん」

「毎日ここ走ってるの? いつごろから? きよは?」

「えっと……」


 何かをごまかそうにも過大申告すべきか過小申告すべきかわからなかったので、正直に答える。


「……五年前から、十キロくらい」

「へえ──っ!」


 ミノルの返事をどのようにかいしやくしたのか、朋美は大きな声を出してから、再び笑顔を見せた。


「すごいねえ、うちの部員でも毎朝そんなに自主練してる人なかなかいないよ」


 続けて、ミノルが恐れていた言葉を、さらりと口にする。


「そんなに速いんだから、入ればいいのに、陸上部!」

「えっ……と……」


 こればかりは、うんと答えるわけにはいかない。

刊行シリーズ

絶対ナル孤独者5 ―液化者 The Liquidizer―の書影
絶対ナル孤独者4 ―刺撃者 The Stinger―の書影
絶対ナル孤独者3 -凝結者 The Trancer-の書影
絶対ナル孤独者2 -発火者 The Igniter-の書影
絶対ナル孤独者1 ‐咀嚼者 The Biter‐の書影