二〇一九年七月。
月の裏側、ドライデン・クレーター内部に建設された大型電波望遠鏡《ドライデンⅠ》が、微弱だが重大な意味を持つ電波バーストを捉えた。
中心周波数1420・406MHzのごく短いシグナルが、わずかな間隔を置いて、二回、三回、五回、七回、十一回、十三回、十七回と繰り返されたのだ。
2、3、5、7、11、13、17。それが素数の最初の七個であることは、小学生にも理解できる事実だった。ニュースは世界中を駆け巡り、ありとあらゆる分野の学者、専門家、そして好事家たちがシグナルそのものの解析に挑んだ。
《七つの素数》の頭文字を取って《SPNシグナル》と命名されたその信号は、たった一週間のうちにありとあらゆる意味合いの《宇宙からのメッセージ》に翻訳され、インターネット上で発表された。だがそのどれ一つとして、万人を納得させ得る論拠を備えてはいなかった。
SPNシグナルが、とある災厄に対する警告であったことが判明したのは、全てが始まり、そして終わったあとのことだった。
二〇一九年九月。
地球上の、いくつかの高密度エネルギー地域に、人類が初めて接触する地球外有機生命体が複数落下した。だが、それはあまりに小さく、また知性と呼べる物も有していなかったため、接触の事実を知り得た者は、ほぼ当事者だけに限られた。
偶然だったのか。
それとも、自分の中の何かに呼び寄せられたのか。
空木ミノルは、《接触》のあと、何度もそう考えた。
真実は解らない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。
あの黒い球体は、ミノルの望みを誤解した。
ミノルが求める孤独は、球体に与えられた超常の力を以てしても、決して手に入れられない。
なぜなら、自分自身でもまだ見つけられずにいるのだから。
あの日からずっと探し続けている、究極の、完璧な、絶対なる孤独が、いったいどんなものなのか。
1
朝靄を貫いて、黒いアスファルトが、細く、長く、どこまでも続いている。
ランニングシューズの薄いソールで、湿った路面を捉え、蹴る。
ピッチに合わせて鼻から二回空気を吸い、口から白い息を二回吐き出す。
心臓がリズミカルに脈打ち、全身に血液を巡らせる。
筋肉の伸縮と、呼吸と、脈拍。それだけを感じながら、ミノルは走り続ける。
肥満指数は平均値をかなり下回っているし、高校で陸上部に入っているわけでもないので、フィットネスやトレーニングが目的ではない。そもそも走ることが好きなのかどうかもよく解らない。
ミノルが毎朝十キロのランニングを日課にしている理由は、走っている時だけは何も考えずに済むから。そして、呼吸と血流が、不要な記憶を洗い流してくれる気がするからだ。
だから、本当は、早朝ではなく深夜に走りたい。
一日の終わりに、土手上の遊歩道を、遠い街明りと月明りだけを頼りに走って、昼間に蓄積された記憶を汗と一緒に流し尽くしてしまいたい。
しかし以前、実際に夜十時ごろ走りに出ようとしたら、義姉の由水典江にやんわりと、かつ交渉の余地なく禁止されてしまった。確かに夜中の荒川河川敷は改造スクーターが爆音を響かせていたりもするし、生活の全てを典江に頼り切っている高校一年生の身では反抗することなど考えられない。
ゆえにミノルは、始めてからもう五年になる毎朝の習慣を、今日──二〇一九年十二月三日も継続している。
足で蹴る。腕を振る。
息を吸う。息を吐く。
十二月の早朝にしては気温が高く、ジッパーを半ばまで下ろしたウインドブレーカーの胸元に当たる空気が心地良い。予報では来週からしばらく雨らしいので、軽装で走れるのもあと数日だ。レインジャケットを着ての真冬の雨中ランは、十キロのコースをほぼ独り占めできるという利点もあるものの、登校前に体力と精神力を消耗し過ぎてしまう。
もちろんある程度の負荷がなければ走る意味はないのだが、学校で居眠りをして教師に怒られでもしようものなら本末転倒だ。ミノルが走るのは記憶をリセットするためなのに、そんな目に遭ったら、忘れるのに何週間かかることか。
最後に教師の叱責を受けたのは二年前、中学二年生の二学期。ミノルが弁当に持って行った義姉手作りのチェリーパイが、校則で禁止されている《お菓子》に該当すると担任教師が言い出し、散々怒鳴られた挙げ句にパイも没収されたのだ。
あの時は、教師が義姉のことまで悪し様に言い始めたので、反論したい衝動を必死に堪えていたら、少しだけ涙が出てしまった。それを意地悪な同級生に見つかり、囃し立てられ、今度こそ我慢できずに…………。
「………………!!」
歯を食い縛り、走るペースを一気に上げる。
ほとんどスプリントのような勢いでコースを疾駆しながら、切れ切れの言葉を吐き出す。
「なんで……思い……出すんだよ……!」
忘れろ。忘れなくてはならない。自分の愚かさを含む全ての記憶を。
なぜなら、それらの記憶は必ず繫がっていくから。
八年前の、あの日に。ミノルの世界が完全に破壊されたあの日──暗い穴の中で、ひたすらに数をかぞえていたあの日の記憶に。
アスファルトを思い切り蹴りつける。
呼吸は荒くなり、脈拍も速まる。だが、まだ足りない。もっともっと苦しくならなければ、いったん黒い水のような記憶に浸された頭はリセットされない。
走る。走る。
いっそ、このまま、心臓か肺が破けるまで走り続ければ。
そうすれば、全ての記憶を置き去りにして、ここではないどこかに行ける…………。
だが、数秒後、朝靄の向こうから銀色のポールが姿を現す。ランニングコースの始点と終点にしている、遊歩道の車止めだ。
捨て鉢な衝動を抑え込み、少しずつペースを落としていく。胸元を冷やす走行風が弱まった途端、ウインドブレーカーの下で汗が噴き出す。呼吸も、脈拍も、たちまち平常に戻る。
ラスト五十メートルは軽く流し、ポールの間を抜けると、ミノルは足を止めた。
リストバンドで額の汗を拭ってから、左手首に嵌めたスポーツウォッチのストップボタンを押す。チチッという電子音を聞いてから、恐る恐る液晶画面を覗き込む。表示されるデジタル数字を見て、思わず顔をしかめる。
予想はしていたが、やはり今日も──。
「……速すぎる……」
口から零れた呟きを、深呼吸で吹き払う。
早朝の十キロランを五年間続けたおかげで、長距離走にはささやかながら自信を持てるようになった。しかし、だからこそ断言できる。タイムというのはそう簡単に向上するものではないのだ。体調や天候などの条件によって日々上下しながら、何ヶ月というスパンで少しずつ速くなっていく──いや、速くなったことに後から気付く。少なくとも、これまではずっとそうだった。
なのに、いまミノルの腕時計に表示されている数字は、たった三ヶ月前のそれと比べて三分近くも短縮されている。最後に少しスパートしたとはいえ、全体的にはむしろ抑え目で走ったつもりなのに。
時計にあてがったままだった右手を、胸の前に移動させる。
指先で、胸骨の真ん中あたりを軽く押す。
痛みも、異物感もない。しかし、確かに感じる。心臓の真上でひっそりと息づく、かすかな気配のようなものを。
「……お前の、せいなのか」
囁きかけても、答えはない。だが、もう、そうとしか思えない。
三ヶ月前のあれは、夢ではなかったのだ。空から落ちてきた何かが、ミノルの胸から体内に潜り込み、消えた。いや、組織と同化した。
その何かのせいで、ランニングのタイムが異常に伸びた。それだけではない。聴力や視力も、以前より良くなっている気がする。
──有り得ない。そんな、非常識なこと。
心の中で打ち消すが、同時にもう一人の自分が呟く。
──常識なんてものは、ただの幻想だ。
どんなに異常で、恐ろしくて、悲しい出来事だろうと、起こり得ることはなんだって起きるのだ。
たとえば、家族四人での幸福な暮らしが、ある日突然跡形もなく破壊されるようなことが。
「…………どうでもいい」
右手を下ろし、小声で吐き捨てる。