Fragment 01 ②


   ***



 ワカちゃん……。

 こわいよ、ワカちゃん。



 ミノルの細い悲鳴を、まるでだれにも聞かせまいとするかのように、ワカバは弟をきつく抱き締めた。

 しかしすぐに腕をほどき、ミノルをしゃがませる。再び悲鳴が込み上げそうになるが、ワカバがくちもとに指を当てたので、どうにかまんする。

 二人がいるのは、《ママの秘密の部屋》──キッチンに接続する、小さなパントリーの奥。

 棚の最下段から大きなバスケットを引き出したワカバは、その下にかくれていた床下収納庫のハッチを素早く開ける。中には十キログラムの米袋が二つ収められていたが、ほっそりした腕のどこにこんな力がと思える勢いで両方とも引っ張り出し、代わりにミノルを中に押し込む。

 立ち上がろうとする姉の手を、ミノルは必死でにぎった。


「……ワカちゃん、どこいくの……?」


 ふるえ声の問いかけに、ワカバは、こわってはいるが優しい笑みを浮かべ、答える。


「おねえちゃんはお巡りさんを呼びにいくから、ミーくんはそこでじっとしてるのよ」

「やだ……ワカちゃんも、いつしよに……!」


 ミノルの声を、ワカバは確たる意思に満ちたひと言でさえぎる。


だいじよう

「…………でも…………」

「大丈夫だよ。ミーくんは、わたしが守るから。わたしを信じて、その中で、声に出さないで数をかぞえててね。千まで数えられたら、プリンを作ってあげる」

「……ほんと? 約束?」


 涙を浮かべながらたずねるミノルに、ワカバは笑顔で、しっかりと頷く。


「うん、約束。だから、絶対にそこから出ちゃだめだよ」


 頭上でハッチが閉められ、収納庫はやみに包まれる。重い音が二回続けてひびく。続いて、大きなものを引きずる音。ワカバが、二つの米袋をバスケットに入れ、それをハッチの上に戻したのだ。

 かすかな足音が遠ざかり、すぐに聞こえなくなる。

 ミノルは、しゃくり上げそうになるのをこらえながら、心の中でけんめいに数をかぞえはじめる。

 一、二、三、四、五、六、七…………。

 どこか遠くで、どすん、どすんと重い音が響く。家族のだれのものでもない、乱暴で粗雑な足音。

 五十二、五十三、五十四、五十五…………。

 足音が近づいてくる。リビングで何か大きなものが割れ、床に落ちる。ダイニングのが次々にたおれる。何者かはキッチンに入ってくる。冷蔵庫や、カップボードの扉を荒々しく開け閉めする音。食器やグラスが力任せにたたき落とされ、くだけ散る。

 百二十九、百三十、百三十一、百三十二…………。

 足音の主はついにパントリーへとみ込む。母親まんのスパイスのコレクションがばらばらと落下する。なべやフライパン類もそこに加わる。まったく見えていないのに、ミノルにはその様子がありありと感じられる。どすん、どすん。足音は、まるで床下を確かめるように何度も足踏みする。

 百五十五、百五十六、百五十七……。

 ミノルの真上で、ずずずっと重いものがこすれる。二十キロの米袋を収めたバスケットが動く音。

 百五十九、百六十……。

 しかし、バスケットは、半分ほど引きずり出されたところで止まる。

 百六十一、百六十二……。

 足音が、ゆっくりと遠ざかる。キッチンで、ダイニングで、再びかいおんが響く。

 百八十、百八十一、百八十二……。

 足音が消える。

 長い、長いせいじやくが続く。

 ミノルは数をかぞえ続ける。姉に言われたとおり、ひたすらに数える。

 やがて、サイレンが近づいてくる。家のすぐ近くで止まる。たくさんの足音が家に入ってくる。張り詰めた大人の叫び声がいくつも聞こえる。

 数える。かぞえる。

 三千六百十七まで数えた時、ついに真上のバスケットが完全に引き出され、収納庫のハッチが開けられる。

 まぶしさに眼を細めながら、ミノルは上を見る。

 しかし、そこにあるのは、金色のしようつきのぼうこんいろの制服を身につけた、見知らぬ男性の顔。

 ワカバではない、だれかの顔。

 ミノルは再び小さく丸まって、数をかぞえ始める。

 三千六百十八。

 三千六百十九。

 三千六百二十──。



 これは、ミノルが八歳、ワカバが十一歳の時のおく

 三つの約束は、もう永遠に果たされることはない。

刊行シリーズ

絶対ナル孤独者5 ―液化者 The Liquidizer―の書影
絶対ナル孤独者4 ―刺撃者 The Stinger―の書影
絶対ナル孤独者3 -凝結者 The Trancer-の書影
絶対ナル孤独者2 -発火者 The Igniter-の書影
絶対ナル孤独者1 ‐咀嚼者 The Biter‐の書影