「あー、そんな鬱ぃイベントも残ってたか……」
「気乗りしなくても出てもらうわよ。……本当、事の重大さが分かってるんでしょうね?」
寝転がったイクタの頭の方へ近付いていって、ヤトリは周りに聞こえないよう小声で囁く。
「……イグセム家のコネを使って、あんたには首都の国立図書館に司書のポストを用意したわ。その代わり、あんたは私と同時に高等士官試験を受験して、二次試験以降で私に有利になるよう立ち回ってもらう。この取引にはあんたも納得したはずでしょ」
「そりゃもちろん、首都の図書館は貴族の天下り先だからね。金と暇を持て余した頭空っぽの連中に流行りの娯楽小説を貸し出して、たまに埃をかぶった哀れな学術書を手入れしてやって……それだけで食うに困らない額の給与が入ってくる。僕としては願ってもない話さ。ヤトリらしくないセコい策だとは思ったけど。君なら僕の助けなんてなくても合格は固いだろ?」
「何とでも言いなさい。合格するだけでいいなら、私だって自分の腕一本で挑むわ。……でも、イグセムの長女に求められる結果はそれだけじゃないの。『主席合格』という勲章が必要なのよ」
「その勲章を、君は高等学校時代から何事につけ独占してばかりじゃないか。そろそろ誰かに譲ってあげても良い頃だよ。主席に座りたがっているのは君ひとりじゃないんだから」
「どの口で言ってるのよ。あんたが座らなかったから、私が座っているだけの話じゃないの」
それを聞いたイクタはきょとんとして、暑さで気でも違ったのか、食べ終わった料理の皿からアサリの貝殻をつまんで次々と自分の頭に載せ始めた。ヤトリの眉根がいぶかしげに寄る。
「……ちょっと、それ、何やってるの?」
「貝かぶりすぎ」
あえて何のコメントも返さず、ヤトリは少年の頭からアサリを叩き落とした。
「……とにかく! あんたが意味もなく隠している実力を利用しない手はないわ。特に今回の試験にはレミオン家の末っ子が強力な対抗馬として出てくるらしいし、用心に越したことはないの。あんたを踏み台にして、ヤトリシノ・イグセムは覇道の第一歩を刻むのよ」
「ま、いいとは思うけどね。話を聞く限りじゃ、二次試験以降は受験生同士の同盟も珍しくないそうだし。戦に先駆けて兵力を揃えることは軍事における基本中の基本だ。『衆は寡に勝る』」
「分かっているならいいわ。くれぐれも一次の筆記試験で落ちるようなヘマはしないように」
「はいはい、頑張りますよ。君と違って、軍なんかに関わるのはこれを最後にしたいからね」
ふてぶてしく応じつつ、イクタは寝転がったまま器用にヤシ酒のお代わりをコップへ注いだ。
高等士官試験──それは学習内容に幼年軍事訓育課程を含む所定の教育機関を修了してきた者だけが受けられる関門であり、幹部候補生、いわゆるエリート軍人となるためにくぐらねばならない最初の試練だ。
一兵卒=二等兵として軍に入った場合、実戦でよっぽどの大戦果でも上げない限り、その出世は下から七番目の階級である下士官「曹長」が限界となる。しかし、高等士官試験は将校の候補者選抜を目的として作られたものなので、この試験に受かった者は最初から「曹長」より一つ上の階級である「准尉」の地位を得ることができる。ただし試験は一年に一度、受験は三回まで。
もちろん倍率もバカ高い。試験全体を通して四百倍を切ることはまずないし、一次試験だけでも二十倍をくだらない。しかしカトヴァーナ帝国の人々には軍人を英雄視する傾向があるので、これに合格した者は憧れの的になる。地位と名誉を一度に得るチャンスなのだが……。
「んー、国家戦略論。たるいわー」
目をぎらつかせて答案用紙と向かい合う受験生たちの中にあって、あくび混じりに鉛筆を走らせるイクタの存在は、もうびっくりするほど浮いていた。そのくせ解答自体は妙にサラサラと進んでいるものだから、周りの受験生たちは揃って鼻白むしかない。
「あー、軍事行政学。ぬるいわー」
その姿ときたら、夏休みの課題を無理やりやらされている子供と同じだ。頰杖を突いて唇をへの字に曲げて、目なんか死んだ魚のよう。で、各科目の解答が終わった瞬間に突っ伏すと、そのまま見直しもせず、答案用紙の回収までピクリとも動かない。
「げー、アルデラ神学。ウザいわー」
試験を見守る教官の性格によっては、それだけで退室を命じられかねない不真面目さだったが、どうやら悪運に恵まれたらしい。
そうして迎えた試験二日目、最後の科目は「軍事史」だった。
「これが最後、これが最後……ん?」
ほとんど生きた屍のような状態で機械的に答案を埋めていくイクタの手が、ふいに止まる。用紙の最後に記された記述問題のテーマが、彼の目を捉えて放さなかった。
──前キオカ戦役において「戦犯」とされた帝国軍の元大将バダ・サンクレイについて、思う所を自由に述べよ。
「…………」
試験が始まって以来初めて、イクタにとっては意表を突かれる出題だった。「自由に述べよ」という解答の形式からして軍の設問らしくない。型に嵌めようとする意志が見えないからだ。
──でも、この文面からは、ほんの少しだけ懐かしい匂いを感じる。
思わず真面目に答えたくなったイクタだが、まさか高等士官試験の答案用紙に帝室への批判を書き連ねるわけにもいかないので、すでに他の教科で点を稼いでいる確信もあり、こう短く答えるに留めた。
──あらゆる英雄は過労で死ぬ。
午後七時二十分をもって各会場での一次試験は終わり、六千人からいた受験生は、例年通りに三百人以下まで絞られた。
そんな一次試験の終了から、およそ一月後。イクタとヤトリは旅の荷物を背負った姿で、それぞれの精霊と共に港から海を眺めていた。二次試験は帝国南方のヒルガノ列島で行われるため、現地へ向かう送迎船に乗りに来ていたのだ。
「ここまでは計画通りね。あんたが受かってくれて安心したわ」
「二年前に取引を持ちかけられてからは、講義をサボって受験勉強ばかりしてたからね」
あくび混じりにイクタが答える。成績さえ優秀なら合格できる高等士官試験と違って、首都の国立図書館司書のポストは天下りの貴族専用だ。この取引以外のチャンスはイクタにはない。
「別に図書館職員を差別するわけじゃないけど、よくそんなに頑張れるわね。特に本の虫ってわけでもないんでしょ?」
「本は好きだけど、言っちゃえば仕事は何でもいいんだよ。『首都の』『国立』図書館司書ってのがポイントでね。その部分さえ同じなら庭師でも掃除夫でも構わない」
カトヴァーナ帝国の首都バンハタールは地理的にも政治的にも帝国の中心だ。仮にこれからキオカ共和国との戦況が悪化しても、攻められるのは最後の最後になる。図書館のような国立施設の職員には福利厚生も手厚い。ぶっちゃけ国が滅びる寸前まで怠けていられるポジションなのだ。