義元はそう吐き捨て、突き飛ばすようにブリュンヒルドの背中を押した。
「先生……ダメですよ。こんなバカ殿に魔法を渡したら」
「大丈夫だ。この世に魔法を使える者が一人増えるだけ。ブサイクな魔姫那が一人生まれたと思えば大したことじゃない」
「三遠駿四八姫が三遠駿四九姫になってセンターにバカ殿が君臨するんですね……恐怖の対象から一気に笑いの対象になる気がします」
「貴様ら、身の安全が保証された途端、ヒドい言い草でおじゃるの……」
義元は怒るよりも呆れてしまっているが、夜半は晴れやかな気分だった。
「お前とこうやってバカな掛け合いをずっとしていたかったが、これまでだ。俺が抑えている間にできる限り遠くに逃げろ」
「一緒に逃げるのはダメなんですか?」
夜半の袖をギュッと摑むブリュンヒルド。だが、夜半はその指を優しく一本ずつはがす。
「今度は俺がお尋ね者だからな。日の本中の大名たちに追いかけ回されるくらいなら、バカ殿に大事に守ってもらって放蕩暮らしに耽るさ」
指を繫ぎ、ブリュンヒルドの瞳をまっすぐに見据えて告げる。
「何人もの魔姫那を指南しても、俺には乱世の終わりが見えなかった。だけど、お前に出逢って、雷舞に多くの人が集まっているのを見て、少しだが、時代が変わりつつあるのを感じたんだ。だから……お前は自由に生きろ。好きなようにしろ。これがお前にできる指南だ」
夜半は静かに笑い、彼女の背中を押した。「この道を走った先に日吉が待っている」と告げるとブリュンヒルドは背を向けたまま、
「わかりました。自由に……好きなように生きます」
と言った。そして地面に這いつくばっているサラに声をかける。
「どうせ、あなたも今川にいられないでしょう。私についてきなさい」
突然のスカウトにサラは驚くも、流石に今川の待遇を捨てるほどの覚悟はなかった。
「お、お誘いいただいたこと、光栄にございますが……主君の前で裏切るような────」
「よいよい。くれてやるでおじゃる。さっさと去ね」
「噓ぉぉっ!? お、お館さまぁ───────っ!」
一刻も早く魔導書を手に入れたい義元にとってサラの去就など、どうでも良かった。
「うぇっ……うぐぅ……あんまりですぅ……今川ほど待遇のいい家、他にないのに……」
さめざめと泣きながら、ブリュンヒルドに肩を抱かれて歩いていく。
夜半は二人が夜の闇に紛れて消えるまで目で追い続けた。
「さて……約束を守ってくれたこと感謝する」
「うむ。今度は貴様の番でおじゃる。それを寄越せ」
夜半の手に持たれた魔導書を指差すが、フッ、と魔導書は音もなく消えた。正確には夜半が収納したのだ。義元のこめかみに青筋が浮かぶ。
「……何の真似でおじゃるか?」
「くれてやりたいのは山々なんだが、契約済みの魔導書は他の者には使えないんだ。俺の魂に結びついている以上、俺の手から離れることはない」
「きさまっ! 謀ったでおじゃるか!?」
激昂する義元は再び刀を鞘から抜いた。しかし、
「最後まで聞け。魔導書は魂に結びついている。つまり、持ち主が死んで魂が消失すれば魔導書は誰のものでもなくなり、次に拾った者が所有者になれる」
そう言って、夜半はその場に跪き、首を差し出した。
「夜半……貴様、まさか!?」
「俺の首ごとくれてやる。だから、アイツには金輪際手出ししないでくれ」
ブリュンヒルドを救い出すことを決めた時から、始末のつけ方はこれしかないと夜半はわかっていた。魔導書を渡すことでしか、義元を交渉のテーブルにつけることはできない。
しかし、それは自分の命を差し出すことと同義である。怯む心を抑えつけ、後戻りできぬよう魔法を使って牢を破り、三遠駿四八姫を蹴散らし、魔導書の存在と力を見せびらかした。たとえ、この場を切り抜けようと魔導書を持つ夜半は日本中から命を狙われる。自分を追い詰め、辿り着いたこの結末に夜半は満足していた。
「夜半よ。お主ほどの男があのような小娘のために命まで差し出すのか? そこまで好いておったでおじゃるか……」
「ハッ、生憎その手の話は疎くてな。俺はただ、自分の生き甲斐を大事にしただけだ」
「生き甲斐だと?」
「魔姫那が不幸にならないような世を作るために魔法指南役となり、その仕事を生き甲斐として、今日まで生きてきた。だが、魔姫那であろうとなかろうと、自分の一番そばにいる娘をみすみす不幸にしてしまった後の人生に、生き甲斐など見出せないだろう」
夜半の言葉に義元は唸った。
「……本気でお主を惜しいと思うでおじゃる。お主が忠誠を捧げてくれたのなら、どの武士よりも、魔姫那よりも頼れる家臣となったでおじゃろう。だが、魔姫那になることは麻呂の悲願。せめて麻呂自ら、引導を渡してやるでおじゃる」
夜半の頭上で義元は刀を振り上げた。
「貴様から授かる力で麻呂は名実ともに当代最強に至るでおじゃろう。この乱世の行く末をあの世から眺めるがよい」
武家の頂に立つ者としての顔で義元が告げた言葉は自信と責任感が迸っていた。
昇りきった月のように、高く掲げるように刀を振り上げ、夜半の首に狙いを定める。あとひと動作で夜半の首が刎ねられる、その直前だった。
『みなさ〜〜〜〜〜〜ん! 私の声が聴こえますか!?』
脳内に直接声が飛び込んできた。聴き慣れた声に夜半は思わず、
「ブリュンヒルド!?」
と声の主の名を口走った。その声は夜半以外の人間にも……それどころか、駿府の街にいる民すべてに聴こえたようで、誘われたかのように往来に人々が出てくる。
ブリュンヒルドはその様子を民家の屋根の上から眺めていた。
「『あははは、凄いです! 本当にたくさんの人に届いているみたいですね! サラ。やっぱりあなた、今川から追い出されて正解でしたよ』」
「……姫様に付き合うと碌なことにならないって、昔からわかっていたのに……」
「『元々、今川に馴染めていなかったし先は見えてましたよ。一軍グループを追い出されたパッとしない女子が下のグループに移るのは女の世の常じゃないですか』」
「デリカシーって言葉は伝来していませんでしたっけ!? てか、駿府中に私がクビになったこと広めないでください! 一旦、切りますよ!」
「あっ……もう。次が本番なんですから、私がやめて、と言うまで切らないでくださいよ」
「これ以上何をしでかすおつもりなんですか………」
ブリュンヒルドは柄にもなく緊張していた。何百人の前で歌う雷舞の直前だってこのように口の中が渇き、脚が震えるような感覚を味わったことがない。しかし、邪魔なものすべてを洗い流すように笑った。
「先生に『自由に好きなようにしろ』と言われましたので、見せてやろうかと思います。私が本気でやりたいようにやったらどうなるかを!」
突然聴こえてきて、突然聴こえなくなったブリュンヒルドの声に誰もが戸惑っていた。
「夜半……どういうことでおじゃる?」
「知らん。いや、本当にわからん。アイツ、何しようとしてるの?」
味方のはずの夜半ですら動揺していた。いや、味方だからこそ嫌な予感がしたのだ。
『あらためまして、私の名前はブリュンヒルド! お城の前で歌や踊りを披露していた天下無双の美少女愛踊です! あの時はごめんなさ───い! 今川義元さまに邪魔されちゃったんです! 民の娯楽を許さないなんて狭量なお方ですね! そう思いませんか!?』
再び駿府中にブリュンヒルドの念話が響き渡った。領主批判でも始めるのか、と思われたが怒気はなく、それどころか薄ら笑っている。