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ザッハ国の酒場は連日盛況だった。
南東の国ざかいに近い、王都からすれば辺境ともいえる田舎村の店も同様だ。
汗と酒と、わずかばかり汚物の臭いが立ち込めた店内は、ほとんどが半裸姿の男たちで埋めつくされている。一日の労働を終えたばかりの彼らは、
「愛すべきくそったれの親方に」
「われらがザッハの復興に!」
「神のご慈悲と、馬糞臭いわれらがザッハの新王に!」
掲げた杯をあわせては、どっと笑いあう。歌うわ、踊るわ、店に連れ込んだ娼婦に抱きつくわ、なかには陽が暮れる前からもう正体をなくして眠りこける者とてある。
しかし彼らを、「浮かれすぎだ」などと責められる者が国内にひとりでもいたろうか。
数か月もさかのぼらない過去、ザッハ各地は戦争で焼け跡になっていた。子を亡くして泣き叫ぶ親は数知れず、親を失った子たちが路上を細い足でうろついていた。戦地へいった夫や恋人を待ちつづける以外にない女たちは、昼日中から家で身を寄せあいつづけて、蹄の音が聞こえれば窓を閉ざし、扉を釘で打ちつけた。ランドールの軍勢は目につく人間を片っ端から連行していくのだ。奴隷、もしくは邪悪な神への供物とするために。
善なる神のご加護にすがろうにも、教会は真っ先に焼かれていた。代わりにランドールの崇める邪悪な神の像が領内に次々と運び込まれるなか、大陸随一の強国と謳われたアルギアが滅び、南の隣国フォーゼも国土の半分ほどがランドールに奪われたと聞かされて、そしてついにザッハの王家が絶えたという知らせが入った。人々は瘦せ細った身体を抱きあい、重たげに瞼を上下させるだけの日々を過ごすしかなかった。
それが一転した。いまや蹄の音は大勢で歓迎された。新王就任を祝う名目で、王都から救援物資を運んでくる馬車のものだからだ。全土を脅かしたランドール騎兵、赤い目の巨人兵、空を埋めつくした黒い翼の群れはどこにもなく、人々はいつもの労働に従事できるようになって、猫や犬の姿さえ途絶えて寒風吹きすさんでいた往来には子供たちの駆けまわる姿が戻ってきた。もともと歌や踊りを愛するザッハ人の性質からして、連日のお祭り騒ぎも無理からぬことだ。
「わがザッハが生んだ三人の英雄たちに!」
「〈運命の勇士〉アレフの世界を変えた勇気に。〈竜戦士〉ギュネイの悪を断つ聖槍に。〈最後の聖堂騎士〉ジューザの代償を求めぬ忠義に!」
杯を掲げる理由は山とあった。ひと晩かかっても消費しきれないほどだが、無論、よい酒ばかりとは限らない。
「おまえのその態度が気に入らないってんだ」
店内に突如としてロブの怒声が響きわたると、客たちは一様にうんざりした顔になって、
(またか。いったい今日のお相手は誰だ?)
と何人かが好奇心に駆られて店の隅っこを見やり、当のロブと向かいあう『お相手』を確認すると、お気の毒さま、といった具合に肩をすくめた。
腕っぷし自慢が多い樵のなかでも、ロブはひときわ体格がいい。対する『お相手』は、ザッハ人男性としては平均的な背格好だが、ロブと相対すると相当に見劣りした。おまけに、覇気のなさそうな顔つきが頼りなさに拍車をかけている。
「待ってください、ロブさん。いったいおれのなにが気に入らないんですか?」
若者は、気の立った牡牛じみているロブを、両手で制止しながら声をあげた。
こちらの名はジャックという。最近になって村にふらりとあらわれた若者だ。大工やら樵やら石切りやらを日ごとに掛け持ちしていて、日々、骨惜しみせずによく働いた。といっても、大工以外はどれも慣れない仕事だったらしく、毎日が四苦八苦と失敗の連続だった。ロブは仕事に厳しい男だ。目下の人間がひとつでも段取りを誤ると容赦なく罵声を飛ばし、誤りが二つ三つと重なると、石みたいな拳を胸板に当てた。ロブのこうした可愛がり方は年少の者たちを怯えさせた。ジャックは口答えもせずによく耐えていたほうだ。ロブも周囲に、
「すぐ逃げ出すかと思っていたが、最近の若い野郎にしてはなかなか気骨のある奴だ」
くらいの賛辞は口にしていたのだが、今日になって、ちらりと意地悪な好奇心が首をもたげてきた。ジャックは従順で、大人しかった。休憩中に男たちが交わす笑い話や猥談に笑顔を浮かべることはあっても、自分から話の種を撒くことはない。「前はなにをしていた?」と聞かれても曖昧に誤魔化す。そこはザッハの人間同士だから、まだ振り切れていない過去の惨事があるのだろう、と皆気を遣って、必要以上に聞き出そうとはしなかったが、
「そろそろあいつが来て一か月にはなる。『歓迎』してやらないとな」
ロブが提案した。『歓迎』とはつまり、仕事仲間として定着した証に、飲みの席で主役にしてやることだ。いままでジャックはそうした席にも参加してこなかったのだが、
「今日はおまえが主役だ。酒なんて飲まなくていいから顔は見せろ」
と強引に店までつれてきた。「飲まなくていい」なんてのはもちろん真実じゃない。神に誓いを立てた身であったとしても、わざわざ罪に数えるまでもないほどの可愛い噓。ロブは手馴れたもので、店に着くなり、
「まあ、乾杯のひと口くらいはいっとけ」
とまずジョッキを持たせることに成功し、ジャックが仕方なしにひと口飲めば、
「お、割といける口じゃないか。よしよし、その調子でぐっといけ。なに、一杯だけだよ。主役が最初のジョッキを空にしないことには、みんな次に口をつけられないんだ。それがおれたち、女房以外には山と森の精霊だけを愛してきた男たちが交わした鉄の掟さ」
などと適当なことをいって、ジャックに酒を飲ませつづけた。新人をぐでんぐでんに酔わせて、無理矢理にでも腹を割ったつきあいをさせようという魂胆だったが、ジャックが順調に三杯のジョッキを空にし終え、顔も赤みを帯びてきて、いつになく饒舌になりはじめたころ、むしろロブのほうがそれ以上に顔を真っ赤にして、席を蹴って立ちあがっていた。
昼間伐り出す丸太によく似た腕でジャックの胸倉を摑みあげようとする。「わっ」と声をあげたジャックは網から逃げる蝶々のような仕草でよけた。ただし彼とて酔っているので足もとがおぼつかない。二、三歩、よろけながら、両手を左右に振る。
「待ってください、ロブさん。どうか落ちついてくださいってば」
「落ちつけだと? さんざん舐めた態度取りやがって、それで落ちつけだと?」
「舐めてなんていません。なんでも気づいたことがあればいえ、っていうから、おれは思ったことを素直にいっただけです。ロブさんは酔うと同じことを何度も繰りかえすから、ロブさん、それは今日でもう五回目です、って」
「ほう? ほかにもいっていたろう。いいぜ、遠慮せずにもう一度いってみな」