「ほかに? ええと、そう、たまには身体を洗わないと、とてつもなく臭いときがあります、っていったかな。今日みたいにお酒をたくさん飲まれたときなんか、酒と、汗と、その他もろもろの臭いが混じって大変なことになる、隣にいたキースさんが真っ先に吐いちゃったのは、酒のせいじゃなくてロブさんの臭いのせいじゃないか、って、おれはごくごく素直に」
見て見ぬ振りをしていた客たちが笑いをこらえかねて背中を震わせた。「手前」と怒声とともに椅子が飛んでくるのを、ジャックは首をすくめてまたもかわした。
「遠慮せずにいえというからいったのに。おれにどうしろっていうんですか?」
困惑しきりの顔からは少年っぽさが抜けきれていない。まだ二十は超えていないだろう。ロブからすれば息子同然だ。
「とうとう酒で本心があらわれたな。手前、大人しい振りして、おれを馬鹿にしてたんだろ」
「そ、そんなわけないでしょう。どうすればロブさんは満足してくれるんです?」
「おれのいうとおりにしてくれるってのか。なら、いますぐ、そのふぬけたみたいなツラをやめろ! 自分でできないんなら、おれがもっとマシな顔に変えてやるよ」
顔色を『変えた』のはロブのほうだった。昼間、地面に強く根を張った大木相手にそうするみたいに拳を斧代わりに振りかぶる。と、
「わあ、待て待て、ロブ。いきなり新入りの顔変えちゃなんねえ」
さすがにロブの顔見知りたちがこぞってなだめにかかった。一人、二人と怪力で振り飛ばされたが、五人がかりでようやく身動きを止めた。ジャックは嘆息した。
「申しわけありません、ロブさん。おれは、本当にどうしたらいいのか」
「その態度をどうにかしろっていってんだ!」
「いいからあっちいってろ、若僧」ロブにしがみついた赤鼻の男がジャックに手を振った。「明日には、寝汗と小便にまぎれてすっかり酔いが抜けて、こいつもけろりとしてるよ。だからいまは離れてろ……あいたっ、ロブっ、手前、いい加減にしねえか」
男たちがもつれあっているのをよそに、ジャックは渋々と、おぼつかない足取りでその場を離れた。
「おれが悪いのかな。いや、おれじゃない。おれじゃない」
ひとり言をぶつくさいいながら、ロブたちのいた席とは反対側の隅っこにあるテーブルに近づいた。すでに客がひとり席についている。ジャックは「こんばんは」といいながら、木の腐れかかった別の椅子を引いた。
「相席いいですか。仕事仲間に嫌われちゃいまして」
「構わんよ。ジャックといったかな」
「聞いておられましたか。恥ずかしい」
相手が年配の様子だったので、ジャックはげっぷをしながら恐縮した。年配といっても、ジャック以上に長身で、身体つきも樵たちに劣らずぶ厚い。屋内だというのに穴だらけの大きな帽子を目深にかぶっている。水みたいに酒を飲みながら興味深げに聞いてきた。
「毎日がこんな調子なのか?」
「ああ、毎日、毎日、毎日、ですよ。こうまで恨まれるんじゃ、あれだ、きっとおれの顔が、昔ロブさんを騙して、あり金全部持っていったっていう娼婦によく似てるんでしょうね」
「ほほう、なるほど」
ジャックの精いっぱいの冗談に、年配の男はにやついた。話し言葉にザッハの訛りがない。色あせた服やブーツの汚れ具合から察するに、旅人だろうか。太陽と風に長年さらされて乾いた地表によく似た肌の色からも、いかにも旅慣れた様子が伝わってくる。
テーブルの下では、小柄な犬が床に突っ伏して眠っていた。この店で飼っているのではなく、男の『連れ』らしい。茶色い毛並みは薄汚れているが、ツンと鼻面の伸びた顔立ちにはなんだか気品があるようにも見える。時々小さく鼻を鳴らしたり、耳をぱたぱたと上下させたりしているが、じっとしていて鳴き声ひとつあげない。
「おまえにそっくりな娼婦にどれほど客がつくやらわからんが」
「ひどいこというね、爺さん」
「おまえ、昔は──というほど前じゃない、ランドールをあとにするまでは──もう少し男ぶりがよかったはずなんだがな。いつから、そんな腑抜けたツラになりやがったんだ?」
「だからひどいね」苦笑いを浮かべたジャックは、ふと、「むかし? ランドール?」
しげしげと目の前の人物を眺めはじめ、それから突然椅子を蹴倒す勢いで立ちあがった。
「あ、あ、あなた、いや、あんた──ケ、ケイ……」
今度こそ酔いのさめた顔をしながら、年配の男を指差した。すると相手は「やっと気づいたか」という顔をしながら、こちらは唇の前に指を一本立てた。ジャックははっとした様子で周囲の様子を窺い、それからいっぺんに力が抜けたようにふたたび腰をおろした。
「お、驚いたな。驚いた、驚くよ、そりゃ。いったい、いつここに?」
「ついさっきだよ」年配の男はにやけ顔に戻った。「おまえを捜すのはひと苦労だった。ザッハに出かけりゃすぐわかるだろう、と高をくくっていたんだが、まさか、どこの城主になるでも、召し抱えられるわけでもなく、『素』の顔をして樵の仲間入りとはな。おかげさまでこっちはなんの手がかりも得られやしねえ。あきらめて帰ろうかと思っていたが、こいつがおまえの臭いを覚えていてな」
男は、テーブルの下で寝ている犬の脇腹をブーツの爪先で小突いた。犬は迷惑そうに目を向けただけだ。
「ああ、リーリン。久しぶり」
まだ驚きの覚めやらぬ顔でジャックが挨拶すると、犬は、そちらにも面倒そうに視線を送っただけで返事をした。長旅に連れまわされたせいで疲れているのだろう。
「リーリンは臭いで人間を判断できるがよ。おれはそうはいかん。実際、おまえはおれに気づくのに遅れたが、本当のことをいうと、おれのほうだって、おまえがひと目じゃわからなかった。『素顔』を半ば忘れてた、ってのもあるが、しかしおまえ、そんなツラしてたか?」
「い、いきなりで随分じゃないか。ツラの話なんてどうでもいい。なんだって、あんたがここに?」
「まあ、そう焦るな」男は年齢の割に健康そうな歯を見せながら笑った。「ひとまず飲み交わそうではないか。旅のあいだ、おまえと酒を飲む機会なんざなかったからな。しかしまあ、それがシャンデリアきらめく絢爛豪華な城の大広間ではなく、どぶと汚物の臭いがする安酒場の一角とはな!」
男が改めてジョッキを勧めたちょうどそのとき、店内の空気が変わった。
ひょっこり店へ入ってきた新たな男が、手にした竪琴をひとつ爪弾いただけで、絶え間ない乾杯の音頭、女たちの笑いさざめく声、注文を怒鳴る声、誰かを罵るような声など──、混沌としていた喧騒がぴたりとやんだ。
新顔は酒場の中央に進み出てきて、一礼した。背の高い帽子に、かつて大陸を支配していたミルド人の民族衣装に似せた若葉色の上衣。それに竪琴とくれば、吟遊詩人にまちがいない。
酔漢たちの注意と期待を一身に集めたこの新顔は、
「ご列席の、尊くて上品なる方々」と投げキッスをして何人かを笑わせてから、竪琴を高く掲げた。「まずはお近づきのしるしに、一曲歌わせていただきたい」
「なにを?」すかさず石切り職人が怒鳴った。「ここのお上品な方々は耳が肥えてらっしゃるぞ。つまらねえ歌だったら身ぐるみ剝がれて追い出されるからな」
「おお、怖い。それならば、皆さま方──、邪神カダッシュを討ちはらい、この世に光をもたらした六英雄の話などはいかがでしょう?」