ごちん。
目から火花が散った。思わず前へとよろめきかかる。
「大事な儀式の前にぶったるんでおるな、一馬。わしが最近早朝の訓練につき合っておらんからといって、それもサボっておるんじゃあるまいな?」
祖父の剣三は、振り上げた剣の柄でもう一度狙いを定めている。本物の刀だ。居眠りをしかけていた浅生一馬は素早く身を引きつつ、恨めしげな涙目で祖父を見上げた。
「ま、まさかー。ほら、早朝訓練をサボらずにやってるからこそ、眠くなっちまうんだよ」
毒のなさそうな笑顔は一馬の得意分野だ。本人は少なくともそう思っている。と、後ろから、
「へーえ」
と、いかにも「何かあるぞ」と言わんばかりの声が聞こえてきた。一馬は振り向かず、
「うるさいぞ、美亜」
「まだ何にも言ってないもんね。ねーえ、おじいちゃん、兄貴ったらね」
「やっぱり言う気じゃねえか!」
「静かにせんか!」
剣三が白い美髯を震わせて一喝した。ゆらっ、と前に並んだ蠟燭の炎が派手に踊る。兄妹は真顔に戻って、おほんと咳払いした。
が、時遅く、この三人は──というより、一馬は──すでに大勢の注目を集めてしまっていた。
蠟燭の炎だけが辺りを薄明るく照らし出す闇の中。
彼ら家族と同じく、白い、簡素な着物を身にまとった年格好様々な男女がひそひそ声を交わし合っている。
「見ろ、あれが浅生家の跡継ぎらしいぞ」
「あの人? この儀式のとき、何にも力を出せなかった人って」
「シッ、指差すんじゃありません」
「成人の儀式だけじゃないぞ。迦具羅の家の次期当主はもっと小さい頃にも儀式をやるんだ。そのときだって……」
「長い、そう、あまりにも長い我々の歴史にも前例のないことだ」
「よく顔を出せるわね。あたしだったら、恥ずかしくって一族から出ていっちゃうと思うな」
言われてるよ、とばかりに美亜が肘でつついてくる。一馬はふふんと鼻で笑っていた。
「浅生家も不幸がつづいているな。剣三さまの息子夫婦があんなことになり、おまけに跡継ぎがあれでは」
「いいや、結界の民として力が出せんなどということは、普通に考えればあり得ん事態だ。親にも何か問題があったと考えるべきではないか?」
「長生きしなくて、存外、幸せだったかもしれないな。自分のところの息子がああだったら、と考えると、わたしなど──うわっ!?」
頭を強打されて、ひとりがよろめいた。なぜか日本刀の鞘が飛んできたのだ。
剣三がぎょっとしたように、いつの間にか鞘の部分が失われた刀を見下ろす。
「おや、お気の毒」
一馬はにこっと笑って、鞘を拾いにいった。頭を打たれた男がにらみつけてくる。
「き、貴様」
「気をつけなよ」むしろ相手をとがめるように一馬は言った。「世の中、危険がいっぱいだよ? 風呂で滑って金玉打って死んじゃう奴だっているんだから。常に気を張っていないとね」
男の顔色が真っ赤になる。
「このっ!」
「何を騒いでいる!」
びりりと鼓膜が震えた。祖父の声ではなかった。一馬は鞘を拾おうとした姿勢のまま振り返る。
まぶしい。
そこだけ闇が晴れていた。逆光になった彼の目に、長身の黒い人影が見える。白い袴に踊る朱染めの炎。肩に鈍く輝くのは角の生えた肩当てであり、手には長い矛があった。
戦士装束のそのシルエットはしかし、男性のものではなかった。
「浅生一馬、おまえか」一瞬、声に呆れのようなものが混じったが、すぐに元の鋭い声音に戻り、「ここは学校じゃないぞ。こんなときにまで騒ぎを起こすんじゃない!」
「いや、壬琴、これは……」
泡を喰った一馬はそう言いかけたが、壬琴の鋭い視線に気づいて押し黙った。たとえ幼馴染でも、たとえクラスメートであっても、いまは対等の立場ではない。今回の儀式において迦具羅代表としての立場を与えられた壬琴と、〝結界の民〟として対峙している以上。
壬琴はさっと横へ身を引いた。
新たな人影が入り口から複数現れ、あふれ出た光の隧道を通ってくる。壬琴に目線で促されるまま、仕方なく一馬も元の位置へと戻った。
そこに集まった一〇〇人以上の人々を左右に従えて歩いてくるのは、今日の主役とその母親、そして──今回、はじめて後見人として選ばれたみづきだ。
彼女は白い、能面じみた顔をまっすぐに前へと向けていたが、一回だけ、ちらりと切れ長の目で一馬を射すくめた。ぞぞぞっと一馬の体毛が逆立つ。壬琴の視線も充分鋭かったが、みづきにはまた違う種類の怖さがあった。ひとつ先輩のこの目線に、一馬はいつまで経っても慣れるということがない。
「静まりなさい。大事な成人の儀に何事です。誰もがいずれ通る道、そしていつか来た道でしょう。心を鎮め、今日この日を境に、我ら一族にその名を連ねんとする蔓正巳を見守りなさい」
みづきにそう言われ、ようやくのことで静寂を迎えた聖堂内、母親に手を引かれた少年に全員の注目が集められた。
成人の儀を迎えた──ということは一三歳だ。が、クラスでも小さいほうだろう。お仕着せの白い着物がいかにも窮屈そうだ。おまけに、一種独特の静寂と空気のため緊張に固まっているのか、歩くのも辛そうにしている。しかし息子の晴れの舞台を迎えた母親のほうは、きらびやかに飾り立てた衣装と同じく顔をも誇らしさに輝かせていて、息子のそんな様子に気づかずにずんずんと歩いていた。
「あっ」
ついに歩調が追いつかず、蔓正巳が前へと転んだ。
ちょうど目の前だったので、一馬は思わず手を差し伸べかけた。正巳も反射的にそれに応えかけたが、
「触らないで!」
母親が息子の手をひったくった。憎しみさえこめた目線を当てられて、一馬は半腰の姿勢のまま固まってしまう。
「お静かに」
そうたしなめるみづきはあくまでも冷静だ。母親は一瞬、恥じ入るように頭を下げたあと、もう一度一馬をにらんでから、ふたたび息子の手を引いて歩き出す。
前を通り過ぎていく彼らを見送ったあと、一馬は自分の手をじっと眺め、
「……ウィルスに感染するとでも思ってるのかね?」
「臭かったんじゃない?」小声でからかったのは妹の美亜だ。「美亜ちゃんデータベースによるとォ、最近になって、兄貴の就寝時間が一時間遅くなってるのよねー。孤軍奮闘? もいいけど、手はきちんと洗いましょーねー」
「おまえね、兄をストーキングして何が楽しいの?」
冗談めかした一馬だが、その声は半ば震えていた。『美亜ちゃんデータベース』とやらに苦しめられてきたここ一〇年以上の歳月が彼を心底脅かしているのだ。他人の評価はいざ知らず、この一見、何の毒も含んでいそうにない清楚な花は、その実、いったん捕えた獲物をとことんまで嬲るのが大好きな食虫花だった。
一馬は前を向いたまままた妹に何か言いかけたが、母子を守護するような姿勢で立った壬琴の鋭い一瞥に気づいて、今度こそ押し黙った。
祖父の剣三は今回、儀式を取り仕切る役目があったので、蔓家の母子とともに祭壇へと向かっていた。
洞窟の一番奥まった場所に木の足組みが設けられており、その上、一馬たちが見上げる位置に三人とも立っている。浅生家の現当主である剣三は古びた巻物を開いて、直立した蔓正巳へ結界の民としての心得を読み上げていた。
とうとうとよく響く声をしている。そういや、毎夜遅くまで練習していたっけ、と祖父の姿を思い出して一馬はにやっと笑った。